Messenger: 近藤修司
Passage: 黙示録14:12-13
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ヨハネはメッセージを語る天使たちの幻を見ます。すでに私たちは、第一と第二の御使いの様子、その光景をヨハネが幻で見ていることを見て来ました。
A.第一の御使い : 「永遠の福音」を宣べ伝える 6-7節
B.第二の御使い : 「バビロンの滅亡」を伝える 8節
*「バビロン」とは、「悪」、また、「神への敵対」を象徴するものですが、必ず、滅びるというメッセージを天使は語りました。第三の御使いが語ったメッセージが9-11節に書かれていました。
C.第三の御使い : さばき 9-11節
獣とその像を拝む者、また、だれでも、獣の名の刻印を受ける者へのさばきが記されていました。もし、獣を拝むなら、その像を拝むなら、すなわち、サタンを拝むなら、そして、そのしるしを付ける者は、神からのさばきを受けるということが記されていました。大変なさばきである、それらは、(1)あわれみのないさばき 10a節
(2)屈辱の伴うさばき 10b節
(3)永遠のさばき 11節 でした。
11節の後半に「獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。」と書かれています。つまり、そのさばき、苦しみが永遠に続くということを教えるのです。主イエス・キリストの救いを拒み、神の敵である反キリスト、また、サタンに従い続ける者へのさばきの約束を警告した後、今度は、罪を悔い改めて主イエス・キリストの救いを受け入れた者たちへの、祝福の約束が12節から記されています。
12節をご覧ください。「神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たちの忍耐はここにある。」、気付かれましたか?11節から12節に移りますが、さばきに服する罪人から、聖徒たちへとメッセージが変わっています。それは、迫害下にある信仰者たちが忍耐をもって終わりまでしっかりと主に従い続けることを励ますために、12節からこのメッセージが記されているのです。私たちが頭に入れておかなければいけないことは、患難時代の終わりに生きていたクリスチャンたちは、大変な迫害を味わっていたということです。
最初にも話したように、獣の数字である666を付けなければ、物を売ったり買ったりできない時代です。信仰はいのちがけでした。信仰ゆえに首を刎ねられた人たちがたくさんいたのです。そのように時に生きる人たちに対して、特に、主は彼らの信仰を励まして、彼らが忍耐をもって、そして、主に忠実に従い続けていくようにと励ますのです。そのために、二つの真実をこの12-13節は明らかにしてくれます。この箇所から、
⇒ 迫害下の信仰者たちが忍耐を持って忠実に歩み続けるために与えられた二つの真実を学ぶ
迫害下にあるクリスチャンたちがその中にあって、主に従い続けていくために、しっかりと忍耐をもって歩み続けていくために、大切な二つの真実をみことばは明らかにするのです。
A.一つ目の真実 12節
12節に「神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たちの忍耐はここにある。」とありますが、これはその前から続いています。11節に、信仰者を苦しめている悪に対する神のさばきの現実が語られていましたが、12節では、その大変な迫害の苦しみに耐え抜く忍耐を信仰者たちにもたらすことを教えています。これが一つ目の真実です。
ヨハネが言うことは、大変な迫害下にいる彼らに対して、あなたがたを苦しめている者たち、神に反する者たちには、必ず、神からのさばきが下る、そのことを覚えていなさいということです。多くの者たちが迫害を受けているとき「神さま、いったい、あなたはどこにおられるのですか?なぜ、このような悪を放っておかれるのですか?」と、そのような疑問を抱きます。そこで、主は彼らに対して「心配しなくてもよい。必ず、その悪に対しては神の公正なさばきが下るから。」と、そのことを明らかにすることによって信仰者たちがしっかり主を見上げて主に従い続けていく、そのように願って、この真実を11節に記し、それを受けて12節にこのように記したのです。大変な迫害下にあって、クリスチャンたちが忍耐を持って忠実に歩み続けていく、そのために、最初に示された真理は「さばきがある」ということでした。
B.二つ目の真実 13節
二つ目に、ヨハネは13節で「神からの祝福の約束」も、実は、迫害下にあるクリスチャンたちを励ますもの、彼らに忍耐をもたらす真実であることを教えています。ですから、ヨハネはここで二つのことを言ったのです。「確実に起こるさばき」、そして、「特別に備えられた神からの祝福」、この二つがあなたがたに忍耐をもたらすと言います。そこで、二つ目の「神が与えてくださる特別な祝福」を見ていきますが、その前に、この12節は非常に興味深いことを記しています。
1.救われた者の特徴 12節
「神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たちの忍耐はここにある。」と、後半には「聖徒たちの忍耐はここにある。」と書かれています。「聖徒」とは説明するまでもありません。クリスチャンのことです。神がその罪から救い出して、罪を赦し清めてくださったクリスチャンたちのことです。イエス・キリストによって救われたあなたのことを言っているのです。救われたクリスチャンのことを「聖徒」と言っているのです。その「聖徒」に関して、12節の初めには「神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける」という説明がされています。いったい、ヨハネは何を教えようとしているのでしょう?まず言えることは、ヨハネはここで「罪人が救われるための条件」を教えているのではないということです。
1)神の戒めを守る : この動詞は現在形を使っています。
2)イエスに対する信仰を持ち続ける : これも現在形です。
そうすれば結果としてあなたが救われる、ということをヨハネがいったのではありません。行いによっては、それがどんなに良い行いであっても、救いに与ることはないというのが聖書の教えです。ですから、ここでは、救いを得るための条件が記されているのではなく、救いがもたらした結果を記しているのです。「どうすれば救われるのか?」ではなく、「救われた人にはこのような結果が伴う」、「これが救われた人の特徴だ」ということをヨハネは記しているのです。行いによっては救われないと言いました。だれひとりとして、神の戒めを完璧に守り続けることのできる人はいません。
「私は結構いい人間だ」と思っている人はたくさんいるでしょう。でも、神が要求されているのは「99%正しい人」ではなく「100%正しい人」です。ヤコブはこのように言っています。ヤコブ書2:10「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。」と。一生懸命神の戒めを守っていても、もし、一点でもそれを破るところがあれば、あなたは神の前にふさわしくないということです。大変厳しい基準を神は私たちの前に定めておられます。それは、神がすべての点で100%聖い正しい方だからです。
この方の前に立つことができるのは100%聖く正しい者でなければならない。残念ながら、私たちがどのように努力しても、すべての点で完全に聖い正しい者になることはできないのです。ですから、行いによって救いに与ることは私たちには不可能なのです。また、もし、救われるために、主イエスへの信仰を持ち続けることが条件だとするなら、私たちは不安で仕方ありません。なぜなら、私たちは様々な機会に主の約束や主のご性質を疑ってみたり、望みどおりに物事が進まないと不平不満を並べてしまう者だからです。「神さま、本当に私のことを愛してくださっているのですか?」「あなたは常に最善を為すと言われているけれど、これが最善なのですか?」と、いろいろなことで私たちは神に対して不満を抱いたり、神を疑ったりします。もし、私たちが神に対して変わらない正しい信仰を継続することによって救われるとするなら、いったい、私たちのうちのだれがこの救いに与ることができるでしょう?
ですから、ここは「どうすれば救いに与ることができるか?」という救いの条件のことではなく、救いに与った者はどういう人に変えられたのか?という、救いの結果を表すのです。マスターズ神学校のDr.トーマスというギリシャ語の権威は、この12節に関して、二人の神学者のことばを引用して次のように説明しています。『この「神の戒め」の「戒め」ということばと、「イエスに対する信仰」の「信仰」ということば、「戒め」と「信仰」の連結は、従順は神の子となるための条件ではなく、その結果であることを示している。』、ギリシャ語から見ても、ここで言わんとしていることは、救いに与った者たちの特徴を表わすもの、救いの結果を表しているということです。
ですから、今見ている12節の二つのことは、救いに与った本当のクリスチャンたちの特徴だということです。どの国でも、どの国籍であっても、神の恵みによって救いに与った者たちには、このような特徴が備わっていると、この二つのことを挙げているのです。
☆真のクリスチャンの特徴
1)神の戒めを守る
神の戒めを守り続ける人、つまり、神の命令、神の戒めに従っていくということです。ヨハネはヨハネの手紙第一でこのように言っています。Ⅰヨハネ2:3「もし、私たちが神の命令を守るなら(守り続けるなら)、それによって、私たちは神を知っていることがわかります。」。神の命令を守り続けること、それこそが私たちが神を知っている、神と個人的につながっている、救いに与っていることの証拠だと教えるのです。でも、残念ながら、私たちの神に対する従順さというのは不完全です。すべての点で完璧に神に従い続けることのできる人はいません。
でも、少なくとも、神によって救いに与った私たちは、神の命令、神の戒め、神の教えに従っていきたいという新しい願いをもって生きる人へと生まれ変わりました。だから、私たちはその戒めに逆らったときは「告白しなさい」という主の命令に従っているのです。皆さんもそうして神の前に罪の告白をされているでしょう?それは神がそのように命じておられるからです。もちろん、罪を犯したときは神にお詫びしたいという願いをもちますが、同時に、私たちが神の前に罪を告白するのは、そのように行いなさいと神が命じておられるからです。
このように神が願いを与えてくださるだけでなく、不完全ながらも、私たちは神の戒めに従おうとしています。それが救いに与った人の特徴だというのです。同じヨハネは、ヨハネの福音書の中でこのように記しています。「神から出た者は、神のことばに聞き従います。」、これも現在形です。継続してそのように歩むということです。「ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」(8:47)。神のみことばに喜んで従っていきたい、そのような思いを持っている人、それは救われていることの特徴だ。救われていると言いながら全くそのような思いがないなら、その人の信仰には問題があるということです。
2)イエスに対する信仰を持ち続ける
救われた人の特徴の二つ目は、彼らは主を信じ続け主に従い続けることです。迫害があっても信仰を捨てることがない人のことです。というのは、残念ながら、信仰を捨てて神の交わりから離れる人たちがいることも事実です。そのことに関して、Ⅰヨハネ2:19「彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたことでしょう。しかし、そうなったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためなのです。」、なぜ、今まで私たちの交わりの中にいて、いっしょに神に仕えて来た者たちが、突然、神から離れてしまうのか?そして、イエスを知らない人たちと同じような生活をしても全く抵抗がない、なぜ、そのようなことが起こるのか?聖書の答えは「彼らはもともと救いに与っていなかったからだ」です。
イエスが種蒔きの話をされたことを思い出してください。道端に蒔かれた種がありました。彼らはみことばに対して全く無関心です。岩地に蒔かれた種はどうでしたか?みことばを聞くと人々はすぐにそれを喜んで受け入れます。「:21 しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。」とあります。一瞬は、見かけは神に心を開いているようだけれど、それは心からではなかったということが、実際に、信仰ゆえにいろいろな問題が生じたときにそのことが明らかにされるというのです。結果的に、彼らは離れて行ってしまいます。また、「:22 また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。」(マタイ13:21、22)。
だから、イエスが言われたように、多くの人がみことばを聞き、ある人たちは最初からみことばを否定するかもしれない、でも、ある人たちはみことばを歓迎しているようです。しかし、彼らは心からそれを受け入れていない。だから、いろいろな原因があって、彼らは結果的に神から離れて行ってしまう、なぜか?もともと神とつながっていなかったからです。ですから、こうして12節のみことばを見たときに、神によって救われた者には必ず、その証拠が存在するということが分かります。なぜそう言い切れるのか?救いは100%神の恵みのみわざだからです。神が働き、神が私たちを救ってくださるのです。救いとは、神が罪人を赦してくださり永遠のいのちを与えてくださるものです。罪人の罪を完全に赦し救いを与えてくださる。確かに、救いはそうです。永遠の地獄がふさわしく地獄に向かっていた罪人をその罪から救い出し、永遠のさばきから救い出し、永遠のいのちを与えてくださる、確かに、これは救いです。
しかし、同時に、救いは再創造です。新しく造り変えるということです。神が罪人を新しく造り変えてくださるのです。神の栄光を現す者として、神が造り変えてくださる、これが救いです。だから、その生き方に変化が生じるのです。なぜなら、これまでと仕える主人が変わり、生きる目的が変わるからです。ヨハネはこの神のことばをもって、大変な迫害、大変な患難の中にあって苦しんでいるクリスチャンたちに対して、主は必ず罪をさばかれる、そのことを覚えていなさい、今は何も起こっていないかもしれない、さばきがいつ来るのか?とあなたは神の約束を疑って不安を生じるかもしれない、でも、覚えていなさい、必ず、神のさばきは下るということを。そのことを覚えることによって、大変な苦しみの中でも忍耐をもって主に従い続ける、そのことができると言います。そして、忠実であれという奨励から、今度は、殉教した者たちへの祝福へと話が展開していきます。
2.神の祝福の約束 13節
13節をご覧ください。「また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、
主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行いは彼らについて行くからである。」
1) 神からのメッセージ
まず、神からのメッセージがここに記されています。
・また私は、天からこう言っている声を聞いた
これは神からの直接的なメッセージのことです。実は、黙示録の中に7回、このようなことばが記されています。10:4には「天から声があって、」、10:8「天から聞いた声が、また私に話しかけて」、11:12「天から大きな声がして、」、14:2「私は天からの声を聞いた。」、18:4「私は、天からのもう一つの声がこう言うのを聞いた。」、21:3「私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。」と、このように、これらは神が仲介者を介してではなく直接的に語られたことを意味しているのです。神は天使を通して語るのではない、だれかを通して語るのではないのです。神が直接的にお語りになる、そのことを表わしているのです。
・「書きしるせ」との命令がヨハネに改めて与えられた
「書きしるせ」は命令です。このことばも黙示録の中に12回見ることができます。もう見たこと、聞いたこと、今あること、この後に起こることを書き記していたヨハネに、改めてこの命令が与えられているのです。なぜでしょう?マスターズ神学校のDr・トーマスは「この後に続くことの重要さを強調している」と言います。この後のメッセージが大切だから、そのために「書きしるしなさい」と、言う命令をもうすでに書いているヨハネに改めて与えたというのです。
では、どのような内容を「書きしるせ」と言われたのか?
2) メッセージの内容
・今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである
これが「書きしるせ」と言われたメッセージです。「主にあって死ぬ死者」とはクリスチャンのことです。そして、信仰ゆえに殉教する者たちのことです。見ていただきたいのは、ここに「幸いです」と書かれていることです。つまり、このメッセージは殉教の死が災いではなくて、祝福であることを神が告げるのです。
(1)幸いである
「幸いである」と、実際にこのように記されているところは新約聖書の中に50箇所もあります。その中で皆さんが一番よく知っているのは「山上の説教」でしょう。「心の貧しい者は幸いです。」と言われました。マタイの福音書5章3-11節には9回「幸いです」と、神の祝福のメッセージが記されています。そして、この黙示録を見ると、この「幸いです」が7回出て来ます(1:3、14:13、16:15、19:9、20:6、22:7、22:14)。まさに、第二の祝福のことばのようです。
では、この「幸い」とはどういう意味でしょう?これは、神のみから与えられる「幸せ」のことです。「幸いなるかな」、人間がもたらす幸せではないのです。私たちが一生懸命努力をして得る幸せのことでもありません。これは神だけが与えることのできる幸せ、それを意味しています。
先程から「神だけが与える」と、この祝福を与えてくれるのがだれなのかを私は明言しています。でも、この箇所には「だれが」が書かれていません。でも、この文脈を見るときに、私たちはだれが祝福を与えるのかがよく分かります。なぜ、「神」ということばが記されていないのか?それは、神に対する畏敬の念なのです。神のその名前を口にすることさえも我々罪人にはふさわしくない。そのような聖い正しい神が、このようなすばらしい祝福を約束してくださっているのです。
この13節は「殉教者たちへの祝福の約束」が記されています。もうすでに、私たちは黙示録の学びの中で、数々の殉教者たちのことを見て来ました。
・アンテパス : 黙示録2:13「…わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。」と、アンテパスという名が書かれています。わたしの忠実な証人であったアンテパスが首をはねられたこと、殉教したことです。
・祭壇の下にいた殉教者たち : 黙示録6:9「小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。」と、彼らは患難時代の殉教者たちのことですが、なぜ、彼らは殺されたのか?それは彼らが神のみことばを宣べ伝えたからです。また、彼らは、神のみことばを伝えることによって殉教するかもしれない、その可能性が高いということを知りながら、彼らは忠実に神の真理を語り続けたのです。そのような人たちのことが6章の中に書かれていました。彼らの殉教は「神に対する彼らの忠誠心」を証明したのです。彼らはすごい信仰者たちだと思いませんか!過去にもそうです。これからもそうです。このような信仰者たちがいるのです。そして今も、そういう信仰者たちが世界中にいます。イエス・キリストを信じる信仰ゆえにいのちを落としている者は今もいるのです。彼らは主を愛するゆえに、主に従うことが自分のこの地上のいのちよりも大切であると、そのように信じて、そのように確信して神に従い続けたのです。こんな殉教たちの生き様を覚える時に、私たちは何か恥ずかしくなりますね。自分自身がどのように信仰者として生きているのか?そこまで徹底して神に従い続けているのかどうか?でも、そのような人たちのことが記されています。
・数えきれないほどの群衆 : 黙示録7:9、14「:9 その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。」「:14 そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。」、数多くの殉教者たち、信仰ゆえにいのちを落とした者たち、確かに、彼らに対しての神の祝福が記されています。
思い出しませんか?山上の説教で、マタイ5:11-12「:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。:12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。」と、主に従った者たち、信仰ゆえに迫害を受けた者たち、天においてあなたがたの報いは大きいと、そのように神が約束を与えておられます。確かに、そのような約束があります。13節をもう一度見ていただくと、「今から後、」と書かれています。「…主にあって死ぬ者は幸いである。」、その前に「今から後、」とあります。この患難時代の終わりに反キリストの支配があります。そして、その許で多くの殉教者たちが起こります。そして、最後を迎えるその時まで、その期間を指しているのでしょう。「今から後、」その最後の終わりの時までです。彼らに対して神は特別な祝福を用意しておられると言うのです。
どのような祝福が用意されているのか?13節の後半に書かれています。
3) 聖霊による保証
その祝福の前に「御霊も言われる。」と書かれています。恐らく、父なる神からの直接的なメッセージでしょう。そして、聖霊も言われる、つまり、聖霊なる神もこのメッセージに同意しているということです。「しかり」ということばが出ています。これは英語の「イエス」です。「そうである、その通りである」と、そのように聖霊がこの神のメッセージに対して答えるのです。ただの気休めを言っているのではありません。確実に、このことが起こると、そのことを言うのです。
4) 祝福の内容
殉教者に約束された神からの祝福が二つ記されています。
(1)彼らはその労苦から解き放されて休むことができる
この「労苦」はレオン・モーリス先生によると「痛みを意味することば」と言われます。見て来たように、この当時のクリスチャンたち、この患難時代の終わりのクリスチャンたちは、大変な苦しみ、痛みを経験します。その痛みから解放されてあなたたちは休むことが出来る、休息を得ると言うのです。実は、この「休息」ということばもここに初めて出て来たのではありません。6:11で見ました。「すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい」と。
この休息に関して、私たちはすでに学んで来ましたが、思い出してください。これは、怒りが訪れる神のときまで、神のさばきのときまで、天国の祝福の休息を継続して楽しむようにとの招きだということです。神はそのように、主を愛し、主に従った者たちを放っておかれないのです。彼らをちゃんと祝福の中に招いてくださるのです。まさに、この結果は、獣の崇拝者たちと全く相反するものです。もう一度11節を見てください。「…獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、…」、つまり、神の救いを否定し、そして、獣に、サタンに従う者たちは「昼も夜も休みを得ない。」と書かれています。ところが、13節には「主を愛し主に従う者たちは、この痛みから解放されて休息の中に招き入れられる、休むことができる」とあります。Ⅱテサロニケ1:6、7に「:6 つまり、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、:7 苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現れるときに起こります。」とある通りです。
ですから、一つ目の祝福は「殉教者たちは苦しみや残酷な扱いから完全に解放され、また、痛みからも解放されて、神の祝福の休息へと招かれる。」ということです。たとえ、あなたがたがいのちを落とすことになったとしても、それは、その痛みからの解放に過ぎない。なぜなら、あなたにわたしは祝福を与えるから、あなたのたましいがどこかをさまようのではない、あなたはわたしの祝福の中で休息を得るというのです。
(2)彼らの行ないは彼らについて行くからである
これが二つ目の祝福です。この「行ない」とは「神に対する奉仕」のことです。彼らが天に上るときに、彼らの信仰の歩み、主に対する忠実な歩み、愛に基づいて行ったすべてのこと、どんな時にも主を信じ信頼をおいて行ったすべのことに、神からの報いがあるということです。みことばが彼らに言うのです。「あなたがたが大変な苦しみの中、忍耐をもって主に従い続けて来た。主のために喜んですべてのことをして来た。そのすべてのことを神は絶対にお忘れにならない。神の前に立つときに、それらの一つ一つに対する正しい評価がなされ、一つも漏れることはない。神はすべてのことをちゃんと見ておられる。」と。そして、それらに対してふさわしい報いが与えられると言います。
ヘブル書の著者はこのように言います。6:10「神は正しい方であって、あなたがたの行いを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。」と。すばらしい神です、皆さん。この迫害下にいる人たちに対して「あなたたちの信仰のそのすべて、あなたがたが主のために為すすべてのこと、忠実に歩み続けているすべてのこと、わたしはそれらをすべて覚えて、それにふさわしい報いを与える。」と言われるのです。彼らにこの約束を与えることによって、「大変苦しいけれども、辛いけれども、忍耐をもってわたしについて来なさい。」と、そのように神が励ましのメッセージを与えるのです。
迫害下にいるこのクリスチャンたちに対して、主は彼らに励ましを与えようとしました。彼らが忍耐をもって主に従い続けるようにと二つの真実を明らかにしました。一つは「必ず、悪に対するさばきが下る」ということ、もう一つは「主に忠実に従った者たちにはそれにふさわしい神からの祝福がある」です。まさに、「主に対して忠実であれ」というメッセージ、そのメッセージがこのテキストからも溢れ出て来るようです。「主に対して忠実であれ」というメッツセージは患難時代のクリスチャンだけでなく、時代を越えてすべてのクリスチャンたちに対して神が求めておられることです。また、これは私たち贖われた者たちの責任であり、私たちの特権でもあります。
信仰者の皆さん、「忠実であれ」ということは、この患難時代の人たちだけではありません。今の私たちにも神は同じことを望んでおられます。そして、あなたが主に忠実に従って行く、主のみこころに従って生きる人生、それは決して、無意味な人生ではないということです。サタンはあなたがそのように生きることを望んでいません。だから、あなたを一生懸命惑わして、忠実でない歩みをするように、妥協するようにとあなたを誘惑します。ですから、私たち信仰者が覚えなければいけないことは、「もう間もなくすると、私の主にお会いする」ということです。信仰の勇者たちはそのことを思いながら今日を生きました。私たちもそれに倣って今日を生きることです。
パウロがこう言います。Ⅰコリント15:58「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」と。感謝なことに、あなたが主のために為すすべてのことは主がちゃんと覚えてくださり、それにふさわしい報いを与えてくださいます。忠実に歩んでキリスとともに永遠を過ごすのか、それとも主に逆らってサタンとともに永遠を過ごすのか?永遠をどこで過ごすのか、また、だれと過ごすのか?それはあなた自身が決めなければならないことです。
今、信仰ゆえにどのような迫害が起ころうとも、信仰と忍耐をもって忠実に歩み続けて主に喜んでいただける選択をするのか、それとも、主のみこころではなく自分の考える最善を選択して永遠に価値のない歩みをするのかを決めるのはあなた自身です。あなたはどんな選択をしますか?黙示録2章に、スミルナの教会に対する主のメッセージが書かれています。「死に至るまで忠実でありなさい。」(2:10)と主はメッセージをお与えになりました。どのようなことが訪れようと、死が訪れようと、主に対して忠実でありなさいと言います。この生き方こそが神の前に価値のある生き方であり、神がお喜びになる生き方です。この生き方こそ、神の前に永遠に価値のある生き方です。このメッセージは「そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」と続きます。「いのちの冠」とは「永遠のいのち」のことです。
ですから、この聖書の箇所が教えていることはこういうことです。「永遠のいのちを得たのだから死に至るまでわたしに対して忠実でありなさい。」と。救われた皆さん、神によって救いに与った皆さん、あなたは永遠のいのちを神からいただいたのだから、その永遠のいのちを与えてくださった主に対して忠実であり続けなさいと。このようにあなたの主が命じておられます。奮い立つことです、信仰者の皆さん!ヘブル書の著者が言うように「弱った手と衰えたひざとを、まっすぐに」することです。
12:12「ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。」
主があなたの心に働いてくださって、あなたの心を、そして、あなたの信仰を霊的に覚醒してくださること、そのことを願います。奮い立って、主にお会いするそのときまで、主のみことばに従い、忠実に歩み続け、そして、残された短い時間、私たちの主の偉大さをしっかりと証していきましょう。それが私たち信仰者に神が与えてくださったすばらしい特権です。そのように私たちは生きるのです!
《考えましょう》
1.「真のキリスト者」の特徴を記してください。
2.どうして神の約束が彼らの忍耐を生み出したのでしょう?
3.どうして「主にあって死ぬ死者」は幸いなのかを説明してください。
4.今日学んだことを信仰の友と分かち合って実践に励んでください。
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