Messenger: 近藤修司
Passage: 黙示録14:8-11
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2016/05/08 礼拝メッセージ 近藤修司 牧師
主 題:天使たちのメッセージ 2
聖書箇所:ヨハネの黙示録 14章8-11節
黙示録14:8をお開きください。
A.第一の御使い:「永遠の福音を宣べ伝える」 6-7節
私たちは14:6から天使たちが語るメッセージを見て来ました。6、7節には第一の御使いが現れ、そして永遠の福音を宣べ伝えている様子を我々は見ました。
B.第二の御使い:「バビロンの滅亡」を伝える 8節
1.「大バビロン」とは?(黙16:19、17:5、18:2、10、21)
1)「実際の都市」
きょう私たちは8節から見て行きます。「また、第二の、別の御使いが続いてやって来て、言った。『大バビロンは倒れた。倒れた。激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた者。』」と。「大バビロン」と出て来ます。実はこのような表現は16:19や17:5、18:2、10、21に出て来ます。私たちは後日そのことについて学んで行きますが、この「大バビロン」とは一体何なのかと言うと、ある人たちはこれは実際の都市だろうと言います。あのメソポタミヤの都市バビロン、創世記10章でノアの子孫たちは箱舟が漂着したアララテ山周辺の山岳地帯から南東へと下り、シヌアルという地に入って行きます。その地の首都がバビロンでした。このバビロンは現在のイラクの首都バグダッドの南約80キロほど行ったところにあると言われています。ですからある人たちはこのバビロンという都市がかつてのところに再建されることを言っているのだと言うわけです。
またある人々は、この「バビロン」というのは、ローマを指していると言います。ペテロがⅠペテロ5:13に「バビロンにいる、あなたがたとともに選ばれた婦人がよろしくと言っています。」と記しています。これはローマの教会の人たちを指しているので、そこからこの「バビロン」というのはローマだと信じる人たちもいます。
また旧約聖書が終わり、新約聖書が書かれるまでの間の中間時代にさまざまな外典が記されるわけですが、その中にもそのように記されています。一つは第二バルク書11・1にローマに対する託宣として、「われ、バルクはなんじバビロンに逆らって言う。」と、バビロンということばが出て来ます。またシビュラの託宣の5・143にはネロがローマから逃亡するさまを想像して、「その時恥を知らぬ不敵の王、すべての生き物と良き人々が嫌悪した王はバビロンから逃亡するであろう。」と書かれています。ローマだと言う人の中には、こういったところから、バビロンというのはローマを指しているのだと考える人も存在しています。
2)「にせキリスト(反キリスト)による世界帝国」
ですから「バビロン」というと、実際の都市を考える人たちもいるし、また、にせキリスト、あの反キリストによる世界帝国、反キリストによる政治的、経済的、また宗教的な世界の帝国を指すのだと言う人もいます。
今、あえて皆さんにこの説明をしたのは、こういった考え方が存在しているということを知っていただきたいのですが、それ以上に、この「バビロン」というのは悪を、また神への敵対を象徴するものだということです。「バビロン」は最初からそうでした。
◎ 創世記11章のバビロン
① 「プライドの罪」 4節
先ほど説明しましたが、ノアの子孫たちがシヌアルの地に入った時に、彼らを導いたのはニムロデという人物でした。地上での最初の権力者であったと創世記10:8が教えてくれます。彼らはこぞってバベルの塔を作るわけです。彼らが行なったことが、彼らの二つの罪を明らかにします。一つはプライドの罪です。これは創世記11:4に出て来ますが、「われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。」と、彼らは自分たちの力を過信して神に頼らなくても自分たちの力で何でもできると信じていました。非常にプライドの高い人たちでした。また神を恐れず、自分たちが神に勝利できると思い込んでいました。彼らはこの塔を建てることによって、人々に自分たちの偉大さを誇示しようとします。こういう人々であったということを私たちはかつて学びました。この塔を建てた彼らはプライドの罪を犯すわけです。
② 「不従順の罪」 4節
また同時に不従順の罪をも犯していました。彼らは主のみこころに従うのではなくて自分たちの考えでどこに行くのか、どこにとどまるのかを決定していました。ですから「バビロン」というと、確かに最初から悪また神への敵対を象徴するものであったと。
◎ 黙示録14:8のバビロン:「不品行」……不忠実
この14:8に見る「バビロン」に関しても非常によく似たことが記されています。すべての国々の民に「激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒を……飲ませた」とあります。ここは彼らが強制的に飲ませたということを意味しています。これまで私たちが学んで来たように、大変な権力を手にする人々がいるわけです。にせキリスト、反キリストであり、仕えるにせ預言者は大変な権力を手にしています。ですから、神の「激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒を」強制的にすべての国の人々に飲ませるといったことがここに記されています。つまりこの「バビロン」は人々が誤った道を歩むように力を行使するということです。
何を飲ませたのか、「激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒を」と書いてあります。この「不品行」ということばは、性的な罪だということはわかります。これまでの学びを思い出してみてください。世の終わりに近づけば近づくほど、世の中はますます不道徳になって行く。このにせキリストによって人々は惑わされ、不道徳の罪が全世界に横行する。今でも大変ですけれども、もっとひどくなって行く。今の我々の社会を見た時に、どんどんモラルが低下し、不道徳の社会になっています。それは私たちの国だけではなくて、全世界的にそうです。ジョン・マッカーサー先生はこの「不品行」ということばは「神への不忠実さを描いている」と説明します。ですから確かに「不品行」と言うと不道徳、性的な罪だと我々は思いますが、同時にこれは神への不忠実さを表しているのです。そうすると、主イエス・キリストがこの地上に帰って来られる前の世の中の様子がわかります。非常に不道徳な世の中になり、そして人々はますます神に対して心を頑なにし、神に対する敵対心が増し加わって行く、そんな世界になって行くと。こういった堕落に加担するのがこの「バビロン」だとみことばが教えるわけです。
◎ エレミヤの語るバビロン:悪い影響を及ぼすもの
旧約聖書エレミヤ51:7でエレミヤが「バビロン」がなす悪い影響力について次のように言っています。「バビロンは【主】の御手にある金の杯。すべての国々はこれに酔い、国々はそのぶどう酒を飲んで、酔いしれた。」と。つまりバビロンが世界に影響を及ぼして行く話です。今私たちが見ているように、彼らがなす影響というのはよい影響ではありません。ますます神に逆らうように、みこころに背くようにと働き続け、そしてきよさではなく、正しさではなく、罪を求め続けるように影響を及ぼして行く。こうして見ると、バビロンというのはその始まりから時代に関係なく、人々が神に背いて罪を犯すようにと導く存在だと見ることができます。だから神様のさばきが下るという話です。きよい正しい神がそのような罪を放っておかれるはずがありません。ですからエレミヤ51:6にも「バビロンの中から逃げ、それぞれ自分のいのちを救え。バビロンの咎のために断ち滅ぼされるな。これこそ、【主】の復讐の時、報いを主が返される。」とあります。必ず神はさばきを下すと。
2.バビロンの滅亡
黙示録14章に戻ると、この「バビロン」の滅亡が書かれています。8節に「大バビロンは倒れた。倒れた。」と、「倒れた」という動詞が2回繰り返され、強調しています。それが実際の都市であろうと、反キリストによる帝国であろうと、確実に滅びるという話です。もう何回も見て来たのでおわかりかと思いますが、「倒れた。倒れた。」というこの動詞は、確かに倒れるのは未来でありながら、不定過去という時制を使っています。既にもう起こったことであるかのように記してあるのは、それが確実に起こるからです。ここに未来形ではなくて不定過去が用いられていることに関して、マスターズ神学校のDr.トーマスは、レオン・モーリス師の説明を引用して次のように記しています。「この倒れたということばが不定過去時制の予測的に用いられているのは、その出来事の切迫性と確実性を意味している」と。つまりこの節が私たちに教えてくれるのは、バビロンは確実に滅びる。神のさばきが下る。しかもそんな先の話ではないと。そして16:17からのみことばがそのさばきの詳細について私たちに教えてくれています。これが第二の御使いが語ったメッセージでした。
C.第三の御使い 9-11節 さばき
第三の御使いについては9節に出て来ます。「また、第三の、別の御使いも、彼らに続いてやって来て、大声で言った。」と、第三の御使いがさばきについて語るわけです。9節を見ると、「『もし、だれでも、(条件節です)獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。」と書いてあります。
1.「さばきを受ける者」
まず、さばきを受けるのが一体だれなのかを明らかにしています。ここに記されていたように「だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら」、つまりこの人たちは神様の救いの恵みを拒み、
にせキリスト、またその像、サタンを崇拝する選択をした者たちです。まことの神に心を開き、その方を信じ受け入れて従うのではなくて、彼を完全に拒んで、にせキリスト、反キリスト、そしてサタンを崇拝する選択をした者に対するさばきがここにあるのです。神を拒み続ける者たち、この救いを拒み続ける者たちに対しては、必ずさばきがあるということを教えるわけです。
2.「受けるさばき」 10、11節
彼らがどんなさばきを受けるのか――。10-11節にそのさばきに関しての詳細な説明がなされています。
1)憐れみのないさばき 10a節
10節にこうあります。「そのような者は」、神を拒み続ける者たち、救いを拒み続ける者たちは「神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。」と。なぜこのような表現が使われているかというと、その当時市場においてぶどう酒を売る時に、人々は水を混ぜて売っていました。しかし、さばきが下る時には、このさばきに何か混ぜ物があるということはあり得ない。つまり神様がさばきを下される時には薄められることはない。すなわちそこには神の憐れみがみじんたりともないという話です。容赦ない神様の怒りが下るという話です。その神の怒りをそのまま憐れみなしで飲まなければならないのだと言っているのです。大変厳しいこと、恐ろしいことが記されています。もしあなたが神よりもこの世を選ぶなら、あなたは確実にこの世とともに滅びるという話です。もしあなたが神よりもサタンに仕えることを選ぶなら、あなたは確実にこのサタンとともに永遠を過ごすということです。
今の私たちの時代には神の憐れみがあります。神に逆らっている者たちに対して神はまだ一般的な恩恵を与え続けておられる。私たちクリスチャンと同じように太陽を上らせ、雨を降らせ、そのような恵みをすべての人に与えてくださっている。しかも罪を神の前に告白して赦しを求めるならば神は赦してくださる。しかし、人が地獄に行ったらそうではありません。そこには神の憐れみはみじんたりともない。そこに赦しは存在しないのです。あるのは火と硫黄の池の中で苦しめられるということです。そこにあるのは苦しみだけだとみことばは私たちに教えてくれています。ですからこの10節が私たちに教えてくれるのは、神に逆らう者たち、この救いをみずからの意思を持って拒んだ者たちに待っているのは憐れみのない神のさばきだということです。
2)屈辱の伴うさばき 10b節
10節の後半を見ると、「また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。」とあります。そのさばきは屈辱の伴うさばきであるということが記されています。この人たちは大変な苦しみだけではなく、屈辱を味わうと言うのです。多くの信仰者たちは公の場での迫害を経験しました。それらを通して彼らは屈辱を味わいました。私たちの主も同じです。大衆の面前で辱めをお受けになった。今度は神に逆らい続けた者たちが屈辱を味わうと言うのです。彼らがさばきを受ける時、きよい天使たち、また主がそれらをごらんになっていると。恐らくその時に主を拒み、ご自分の死をもって備えてくださった救いを拒んで来たことがいかに愚かで大変な罪であったかということが明らかにされる。しかも一番悲しむべきことは、救いのチャンスを逃したということがわかると。どんなに悲しい、また恐ろしい出来事か、皆さんおわかりになると思います。神の導きに従おうとせずに、神のみこころに従おうとせずに自分の思いどおりに生きた者たちは、その時に大変な過ちを、大変な選択をして来たと明らかに示されるのです。
3)永遠のさばき 11節
そして11節を見ると、このさばきが永遠のものであることが記されています。「そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。」と。このさばきが永遠であることの証拠がここに記されています。
(1)「彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。」
一つ目は「彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る」の「苦しみの煙」というのは、さばきのしるしです。立ち上り続けている様子です。ソドムとゴモラが滅ぼされた時、アブラハムは煙を見るわけです。創世記19:28に「ソドムとゴモラのほう、それに低地の全地方を見おろすと、見よ、まるでかまどの煙のようにその地の煙が立ち上っていた。」と教えます。アブラハムが見た時に、ヨルダンの低地から煙が立ち上っていた。そこで彼は神のさばきが下ったことを知ったのです。
しかもそのさばきというのがここを見ると、「永遠にまでも立ち上る」と、「永遠」ということばが出て来ます。非常におもしろいことばなので、少し注意して聞いてください。日本語で「永遠」と訳されているこの箇所は、最初に前置詞が来て、「永久」と訳せる名詞と「いつも」と訳せる名詞の二つが並んでいます。実はこれと同じ並び方をしている箇所が、この14章を含めて黙示録の中に13回出て来ます。ほとんどのところが「永遠」と訳していますが、黙示録1:6は「とこしえ」と訳しています。1:18は「いつまでも」と訳しています。それ以外4:9、4:10、5:13、また7:12も10:6、11:15、14:11も15:7も19:3も20:10も22:5もすべて「永遠」と訳しています。
なぜこんな話をするかというと、今お話ししたように、前置詞があって二つの名詞、「永久」と「いつも」が並んでいると言いました。同じように並んでいるのですが、この14:11だけそれぞれの名詞に定冠詞をつけていないのです。それ以外はちゃんと定冠詞がついていて、今言ったような訳で訳されているのです。Dr.トーマスはこの14:11だけ冠詞がないことの理由として、このことが終わりなく続くこと、永久に続くという観念を強めていると説明を加えています。つまりここでは、この神のさばきというものが終わることなく永遠に続くということを強調しているのです。
(2)「獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。」
また11節を見ると、「獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。」と書いてあります。同じようにこのさばきというのが永遠だということがこのような形で記されているのです。先ほどは「永遠」ということばに冠詞をつけないことでそのことを表していました。この「昼も夜も休みを得ない」と記すことによってもそのことを明らかにしようとしたのです。
実はこの「昼も夜も休みを得ない」と単語の配列こそ違うのですが、これと同じことばが使われている箇所が黙示録の中にあります。それは4:8です。そこには、「昼も夜も絶え間なく叫び続けた。」とあります。この「昼も夜も絶え間なく」のこの動詞は現在形を使っています。また14:11の「昼も夜も休みを得ない」の「得ない」という動詞も現在形です。また先ほど見た11節の「立ち上る」という動詞も現在形です。何を言っているかというと、終わることがないという話です。昼も夜も彼らは永遠に休みを得ることがないという話です。
ダラス神学校のワルボード先生は、「永遠にまでも立ち上る」の「永遠」についてこんな説明をしています。「これは字義どおりには世々にわたってであり、ギリシャ語で表現することのできる永遠を表す最も強い表現である。苦しみが続くことを強調するために、彼らは昼も夜も休みを得ないと言われている。」と。ですからあえてこのような表現にしたのは、永遠を強調するためであると。神に逆らって来た者たち、この罪人たちに対する苦しみが永遠に続くことを強調すると説明しています。ですからこの11節のみことばが私たちに教えてくれるのは、神様のさばきというのは永遠に続くということです。罪人は死んでそのまま眠りについてしまうとか、永遠のさばきというものを否定する人たちもいます。しかし我々はこうしてみことばを見る時に、このさばきが間違いなく永遠に続くものであるということを見ることができます。
(3)みことばの教え:「地獄は永遠」
例えばみことばはそれについてどう教えているか――。黙示録20:10には「そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」と記されています。これが一時的なものであると解釈するのは非常に考えられない話です。この苦しみが永遠に続くと書かれている以上、永遠に続くものであると。
またイエス様ご自身もそのことを言われています。例えばマルコ9:43で、「もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片手でいのちに入るほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。」と言われています。「そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。」(48節)と。「両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとって」いいと。もしからだを切り捨てたとしても、その結果、永遠の命に至るのなら、両手を持ったまま永遠のゲヘナ、地獄に行くよりははるかに優れていると。たしかにマルコ9:43では「ゲヘナの消えぬ火の中に落ち込む」と書かれています。これの並行箇所であるマタイ18:8の中には「両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは」とあります。これを見てもそのさばきというのが一時的なものではなくて永遠に続くものであると。
またこの「永遠の火」ということに関してイエス様はマタイ25:41で「それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。」と言われています。マタイ25:46に「こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。』」と明らかに対比されています。救いを拒み神に逆らい続けた罪人は「永遠の刑罰に入り」、神の前に悔い改めをもって救いをいただいた者たち、正しい者たちは「永遠のいのちに入る」と。救いが永遠である以上、このさばきというのも永遠であると聖書のみことばを見るならば、そのことを私たちに明らかに教えてくれているように思います。
きょう私たちが見て来たのは、こうして神が悪に対して必ずさばきを下すということです。神に逆らうように影響力を及ぼしたこのバビロンは必ずさばかれる。同時に、その惑わしに惑わされてしまい、神ではなく偶像を崇拝する者たち、この反キリストを、にせキリストを、そしてサタンを崇拝する者たちに対しては、必ず神の永遠のさばきが下るということを見て来ました。信仰者の皆さん、みことばを通して教えられた真理を見て、我々が考えなければいけないのは、実はあなたも私もこの永遠のさばき、地獄こそがふさわしいところであったということです。ダラス神学校の組織神学の教授でもあったチャ
ールズ・ライリーという先生は、「神は不信者たちに対して彼らは神の御子を拒んだ罪とともに自分たちの行ないによってもこの刑罰に値する者であることを明白に立証される。」と言っています。この救いを拒み続け、永遠の滅びに至った者たち、彼らに神が何を明らかにされるかというと、彼らが神の御子を、この救い主を拒んだという罪とともに自分たちの行ないを明らかにすることによって、あなたたちにこの地獄がふさわしいということを明らかにすると。私たちが覚えなければいけないのは、主イエスを信じる前の私たちはまさに永遠の地獄にふさわしい生き方をして来たことです。今私たちはこの救いに与りました。しかし私たちの日々の生活を振り返ってみる時に、神様に喜ばれたいと願っていながらなぜそのような歩みがなかなかできないのでしょう。私たちが気づかなければいけないのは、こうして救いに与っているのは100%神の憐れみであるということです。こんな罪深く地獄がふさわしい者に神は一方的に救いを与えてくださり、生まれ変わらせてくださった。もしあなたがその救いに与っておられるのなら、あなたは間違いなく、いやあなたが率先して、この救いの偉大さ、この憐れみの神様の偉大さを証する者であるはずです。地獄にふさわしい私を神は救い出してくださり、そして生まれ変わらせてくださり、この救いを楽しむ者に変えてくださったと。そのような歩みを我々がするためには、私たちは罪に染まった者であり、どこから見ても救いに与る資格は私たちのうちにはないし、永遠の滅びが最もふさわしい存在だということを我々信仰者はしっかり覚えることです。
そして神を拒み続けた者たちは、最後の最後にそのことが明らかにされ、もうその時には救いはない、救いはない。ミラード・エリクソンという神学者もこんなことを言っています。「神はだれも地獄へと送らない。すべての罪人が救われることを望んでおられる。地獄の苦しみを経験することは人の選択による。本人の罪が人を地獄へと送るのであり、キリストの死の恩恵を拒むことが地獄から逃れることを妨げる」と。C・S・ルイスが言うように「罪とは人間が人生を通して神に向こうへ行ってくれ、そしてほっておいてくれと言うことであり、地獄とは最後に神が人間にあなたが願ったものを得なさいと言うことである。地獄とは神がその人が願ったように好きにさせておくことである。」と。なぜ人が地獄に行くのか――。地獄を選ぶからです。神を拒み、この備えてくださった完全な救いを拒むゆえに、その人に一番ふさわしいところに送られる。今この中に永遠の滅びに向かっている人はいません?神はあなたにこの日を下さった。あなたの罪を心から悔い改めてこのすばらしい救いを喜んで受け入れることです。この主に従って行く決心をする機会を、チャンスを神はあなたに与えてくださっている。
あなたの永遠は、あなたの救いは間違いありませんか?もしそうだったら、こんなすばらしい神が私たちを憐れんで救ってくださったことを感謝し、この主をほめたたえ、この主を宣べ伝える、そんなかつて救われた時に行なっていた生き方をいま一度始めることです。神様の恵みによって、一方的な憐れみによって救われたことを喜び、感謝し、この神を伝える者として、この一週間しっかりと遣わされて行くところでその働きをなして行きましょう。確かに私たちの主、この方は偉大な偉大な神です。この方をたたえ、この方を伝える者として歩みましょう。
《考えましょう》
1.「バビロン」について説明してください。
2.神の救いを拒んだ者へのさばきがどのようなものか説明してください。
3.救いを拒んだ者への苦しみが永遠に続くことを聖書は教えていました。説明してください。
4.きょう学んだことを信仰の友と分かち合って実践に励んでください。
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