Messenger: 近藤修司
Passage: 黙示録14:6-8
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2016/05/01 礼拝メッセージ 近藤修司 牧師
主 題:天使たちのメッセージ 1
聖書箇所:ヨハネの黙示録 14章6-7節
恐らく、皆さんもよくご存じの聖歌593番「ああ、恵み」は、J・ジョンソンによって20世紀の初めに書かれた讃美歌です。日本語の歌詞はこうなっています。「罪に満てる世界、そこに住む世人に、「いのち得よ」とイエスは血潮ながしませり。ああ 恵み!測り知れぬ恵み ああ 恵み!我にさえ及べり。」と。
確かに、彼女が伝えたかったメッセージははっきりしています。神の恵みによって私の罪は赦されたとその恵みを心から賛美するのです。彼女が記したこの聖歌の3番にはこのような歌詞があります。「信じ難い測りきれない無類の恵み、信じるすべてに惜しみなく与えられた。」、そして、コーラスはこう記されています。「恵み、恵み、神の恵み、罪を赦し心を聖める恵み、恵み、恵み、神の恵み、恵みは私たちのすべての罪よりも大きい。」と。
彼女だけではありません。私たち罪人ひとり一人が神の恵みに心から感謝しています。というのも、私たち罪人を神は一方的にあわれみ救いへと導いてくださったのです。そして、罪深い自分の本当の姿に気が付くほどに、私たちはその神の恵みの大きさに圧倒されていきます。私たちが圧倒されるのは、神の恵みの大きさにだけでなく、罪人に示される恵みの主の忍耐深さにも圧倒されます。なぜ、こんな者をこれほどまでに愛してくださるのか?なぜ、罪人に対してこんなにも忍耐をもって救いを与えようとしておられるのか?みことばが私たちに教えること、特に、今日、私たちが見ようとしている箇所は、この神の恵みは最後の審判が下るときまで示され続けるということが記されています。最後のラッパが吹かれ、最後のさばきが今まさに始まろうとしています。その前に、最後のさばきが来るまでに、神は罪人に対して救いの御手、恵みの御手を延ばし続けておられます。
今日見ようとしている14:6からは、三人の天使たちによるメッセージが記されています。1)6-7節、「永遠の福音を語る」天使たちの姿、2)8節、「バビロンの滅亡」を伝える天使たちのメッセージ、3)9-11節、「さばきの警告」が天使によって語られています。これらのメッセージを見ていきますが、ここにも、神の罪人たちに対する偉大な恵みが記されています。確かに、私たちの神は恵みに満ち溢れた、忍耐に富んだお方であると、J・ジョンソンだけでなく、私たち救いに与った者たちは同じように、感謝をささげるのです。
☆天使たちのメッセージ
A.第一の御使い : 永遠の福音を宣べ伝える 6-7節
6節「また私は、もうひとりの御使いが中天を飛ぶのを見た。」、ヨハネはまた幻を見ています。そして、その幻は「天使が中天を飛んでいる」、その姿を見るのです。この「もうひとりの」という形容詞は、すでに、黙示録7章でも見ました。ここで使われている「アロス」というギリシャ語は「本質的には同じであるが別のもの、同じ種類であるが別の存在を表すことばである」と7:2で見て来ました。ですから、確かに、天使であるけれど、これまでの天使とは異なるということです。6節に「もうひとりの御使いが」と書かれていますが、このことばは14章の中に6回出て来ます。8節は「別の御使いが」、9節にも「別の御使いも」、15節には「もうひとりの御使いが」、17節、18節にも「もうひとりの御使いが」と。ということは、この14章の後半には、6人の異なった天使たちが存在していると、そのことが記されているのです。
その第一番目、最初の天使が何をしているのか?どのようなメッセージを発しているのか?彼は「中天を飛んでいる」と書かれています。「中天」、確かに、私たちはこんなことばは使いませんが、すでに8:13で学びました。これは「空の一番高いところ」を指します。一番高い所に太陽が昇る、そこを指しているのです。なぜ、そこに天使がいるのか?その後にその理由が記されています。「…彼は、地上に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。」と。つまり、福音のメッセージを語るために中天に天使がいるとこの箇所が私たちに教えるのです。ここで言われていることは、地上に住むあらゆる人々に福音のメッセージが宣べ伝えられるということです。だから、そのメッセージが最もはっきりと伝わるように、余すところなくこのメッセージが届くようにと、彼は一番高い所にいたのです。恐らく、すべての人々がその天使を見ることができ、そのメッセージを聞くことができる、その様子をヨハネはこのように記しているのでしょう。
患難時代の終わりです。何が起こっているのか?皆さんの頭の中でしっかり整理して置いてください。
地上においては14万4千人のユダヤ人たち、伝道師たちがキリストの福音のメッセージを語り続けています。大変な迫害の中、彼らは神に守られながらメッセージを語り続けています。また、多くの人々
が、ユダヤ人に限らず異邦人も、この救いに与った人々が地上において福音のメッセージを語っています。そして、それに加えて、天使たちが天から福音のメッセージを語るという、これらのことがここに記されているのです。まさに、これは主イエス・キリストが語られた預言の成就であると私たちは見ます。マタイ24:14「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」、神のさばきが訪れる前、主イエス・キリストがこの地上に帰って来られる前に、この福音のメッセージは全世界に届くということが預言されています。そして、今、私たちはここにその成就を見るのです。
さて、この天使が語る「永遠の福音」と書かれているもの、恐らく、皆さんもみことばを読んでいて様々な呼び名があることに気付かれるでしょう。たとえば、マタイ4:23では「御国の福音」とあります。「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。」、マルコ1:1では「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」、マルコ1:14では「神の福音」、「ヨハネが捕らえられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。」、使徒の働き20:24では「神の恵みの福音」、「けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」、エペソ1:13では「救いの福音」、「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。」、エペソ6:15では「平和の福音」、「足には平和の福音の備えをはきなさい。」、Ⅰテモテ1:11では「栄光の福音」、「祝福に満ちた神の、栄光の福音によれば、こうなのであって、私はその福音をゆだねられたのです。」。
これらは全く違う福音のことではありません。異なった観点から福音を説明しているのです。たとえば、「御国の福音」というと、御国、神のご支配のうちに、救いの中に招き入れられる福音のことです。「平和の福音」というと、神と人との間に平和をもたらす福音のことです。つまり、救いのことです。このように様々な呼び名があるのですが、すべて、救いのメッセージのことです。ここで「永遠の福音」と呼ばれているのは、このメッセージがそれを信じるひとり一人に永遠のいのちを与えるからです。
次の7節には「…神のさばきの時が来た…」と「神のさばき」のことが記されています。この福音は、それを信じる者に永遠のいのちを与え、それを拒むものには永遠のさばきが訪れると、この二つを対比しながら、みことばが私たちに教えるのです。ですから、この「永遠の福音」は信じるひとり一人に「新生」をもたらす、罪の赦しによって永遠のさばきからの解放をもたらす、そのようなメッセージ、「良き訪れ」であると言うのです。
この天使がこうして中天において福音のメッセージ、永遠のいのちをもたらすメッセージを語っている、最初に話した通り、神はこうして最後の最後まで罪人に対してあわれみを示しておられる、最後まで救いのチャンスを与えようとしておられることを見て取ることができます。皆さん、そんな神ですね。逆らい続けた私たちに対して、神は忍耐をもって働き続けてくださった。ゆえに、私たちはこうして救いに与っているのです。
7節を見ると、この天使が語る救いのメッセージがより詳細に記されています。まず、「彼は大声で言った。」という動詞は現在形です。天使は大声で次のメッセージを語り続けていたのです。どのようなメッセージを語り続けていたのか?気付いていただきたいのですが、続く7節には三つの命令形があります。「神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め。」、
一つは「神を恐れよ」、二つ目は「神をあがめよ」、三つ目は「創造主を拝め」、この三つがここに記されている命令形です。これが天使が語ったメッセージです。順に見ていきましょう。
1)「神を恐れる」ことを命じた
つまり、このメッセージが言わんとしていることは「恐れる対象を変えなさい」ということです。思い出してください。患難時代のこの時は大変苦しい時でした。大変な迫害を経験しています。偽キリストが現れ、そして、偽預言者が現れて、偽りのメッセージを語り続けます。見て来たように、獣のしるしである666を付けなければ物を売ったり買ったりできなくなります。ですから、主に従うことはとても難しいことです。私たちはそのことを学んで来ました。神でない偽キリスト、サタンを崇拝することを人々は強制されていました。そして、多くの人々は実際にそのような偶像崇拝を行っていたのです。
そこで、天使は「恐れるべき方を恐れることが必要だ」、そして、「恐れるべき方は神だけだ」と伝えるのです。というのは、彼らは人間を恐れていたからです。もしかすると、自分は殺されてしまうのではないか?と、人間を恐れ、人間の教えに従ってしまっていたのです。ですから、天使はまず最初に、「恐れる対象が違うでしょう?あなたがたが恐れなければならないのは人ではなくて神だ」と伝えるのです。実は、イエスはそのことをこのように言われています。ルカ12:4-5「:4 そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。:5 恐
れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。」、人間ができることは、私たちのこの肉体のいのちを奪うことです。もちろん、それも神の許可の上です。私たちが恐れなければならないのはその先のことです。肉体の死を迎えた後、私たちのたましいを永遠の地獄に送ることができるお方、私たちの上に永遠のさばきをもたらすことのできるお方、その方を私たちは恐れて生きなければならないと言われたのです。
神への恐れ、それが人間にとって大きな問題であることは皆さんもよくご存じです。罪人が神に逆らい続け、罪を犯し続けるのは、この神への恐れが欠如していることが原因だと聖書は教えます。詩篇の中に「罪は悪者の心の中に語りかける。彼の目の前には、神に対する恐れがない。」(36:1)とあります。なぜ、人は罪の中を歩み続けていくのか?神に対する恐れがないからだと言うのです。また、パウロはローマ3:18で「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」と罪人の姿を表しています。
神を恐れない人たちは自分の好きなように生きていこうとします。自分が満足すればそれでいい、私の好きなことをやって行くから…と。彼らが忘れていることは、例外なく、すべての人間は創造主の前に立ちさばきを受けるということです。神を恐れないことが罪人の一番大きな問題であると。もちろん、神を恐れないということは、私たちクリスチャンにも同じように言えることです。私たちは常に神の前に立たされている者として、神を恐れることを学び続けていくことが必要です。
*「神を恐れない生き方」 : その例
神を恐れない生き方の実例を皆さんに示したいと思います。旧約聖書の最後、マラキ書1章をご覧ください。1:6にはこのように記されています。「子は父を敬い、しもべはその主人を敬う。もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか。──万軍の【主】は、あなたがたに仰せられる──わたしの名をさげすむ祭司たち。あなたがたは言う。『どのようにして、私たちがあなたの名をさげすみましたか』と。」、主を恐れないとは、何をしても大丈夫、何をしても赦されると考えて生きることです。まさに、ここにいた祭司たちはそのような生き方をしていたのです。7節から「:7 あなたがたは、わたしの祭壇の上に汚れたパンをささげて、『どのようにして、私たちがあなたを汚しましたか』と言う。『主の食卓はさげすまれてもよい』とあなたがたは思っている。:8 あなたがたは、盲目の獣をいけにえにささげるが、それは悪いことではないか。足のなえたものや病気のものをささげるのは、悪いことではないか。…」、なぜ、これが悪いことかは皆さんお分かりですね。レビ記22章にも、申命記15章にも、このようなものを神にささげてはならないと神が命じておられることが記されています。最高のものを神にささげなさい、それが神に最もふさわしいものだからとあります。でも、この祭司たちはそんなことなど気にも留めていません。
続いて「さあ、あなたの総督のところにそれを差し出してみよ。彼はあなたをよみし、あなたを受け入れるだろうか。──万軍の【主】は仰せられる──」と書かれています。病気のものや完全でないものを人々は総督にささげようとはしません。なぜなら、それが喜ばれないことを知っているからです。私たちは大切な人に何かをする場合、失礼がないようにと細心の注意を払います。神が言われるのは、それでいながら主に対してはなぜそのような思いを抱かないのか?です。まさに、この生き方はその人がいったいだれを恐れているのかを明らかにしています。この祭司たちは、確かに見かけは神を敬う人たちです。神に仕えている人たちです。しかし、書かれているように、このようなことを行っているというのは、彼らは神に対する恐れを抱いていないからです。神はそのいけにえを見て嘆いておられるだけでなく、そのようないけにえを平気でささげる神を恐れない彼らに憤りを覚えておられるのです。
そして、9節を見てください。神が彼らをお喜びにならないことが明確に記されています。「:さあ、今、恵みを受けるために神に願ってみよ。これはあなたがたの手によることだ。神はあなたがたのうちだれかを、受け入れてくださるだろうか。──万軍の【主】は仰せられる──」、つまり、彼らのささげものも、また、彼らも神は喜んでお受けにならないと言います。10節の初め「あなたがたのうちにさえ、あなたがたがわたしの祭壇に、いたずらに火を点ずることがないように、戸を閉じる人は、だれかいないのか。…」、つまり、人々はこのようないけにえをもって神の前に出て来ます。「戸を閉じる」とは、そのような人が中に入って行かないように、そのような人がいけにえに火を灯さないために、このようなことを止めさせる人はいないのか?と言われているのです。10節の後半では神が彼らのささげものを喜んでおられないことを改めて教えています。「わたしは、あなたがたを喜ばない。──万軍の【主】は仰せられる──わたしは、あなたがたの手からのささげ物を受け入れない。」と。確かに、彼らはいけにえをささげていましたが、神は彼らを斥けられました。
ということは、私たちがどんなに礼拝をささげたとしても、見せかけの信仰生活を送っても、それが形だけのものなら、心をご覧になっている神はそれを喜ばれないということです。そのような心のこもっていない信仰の歩みを、神は喜んでおられないだけでなく、神はどれほどそのことを憎んでおられるのか?そのことをこのみことばは私たちに教えてくれます。私たち信仰者はこのようには生きないのです。このように生きてはならないのです。そんな生活を送るために私たちは救いに与ったのではありません。思い出してください。私たちがⅡコリント5:14のみことばを学んだことを…。「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。」と。パウロは、彼自身の信仰生活の原動力となっていたのは「キリストへの愛」ではなくて「キリストの愛」だと、そのように私たちに教えてくれました。
イエスがもっておられたその愛が、パウロのうちに与えられ、そのキリストの愛が彼の信仰生活の原動力だったのです。私たち信仰者も同じです。あなたが主によって救われているなら、あなたのうちにはキリストの愛が与えられています。キリストの愛は父なる神のみこころに100%従順に従うということです。それによって父なる神を愛しておられたことが証明されました。その愛が私たちのうちに与えられているなら、私たちもこの方のみこころに従って生きていきたいと、そのような働きをこの愛は為すのです。主イエス・キリストの愛は、ご自分のいのちを喜んでささげるまでに、私たち人間に救いを与えようとしてくださった。そのキリストの愛が私たちのうちにあるということは、私たちも自分のために生きるのではなく、人々の成長のために、人々の幸せのために生きていこうとします。そのような働きをこのキリストの愛は為すのです。
だから、パウロの信仰生活を見たとき、彼が立派だったのではなく、彼のうちにキリストの愛が十分に働きを為していたのです。そして、同じことがあなたのうちにも為されるとみことばは私たちに教えるのです。もし、あなたが救いに与っているなら、あなたはこのキリストの愛をいただいています。キリストの愛をいただいているなら、間違いなく、あなたの心の中に主のみことばに従っていきたい、神のみこころにいつも従順に従っていきたいと、そのような願いがあるはずです。でも、残念ながら、私たちはそのみこころに反することを行い続けています。どうぞ、罪を告白しながら、主に従い続けていきましょう。主は何度でも赦してくださるから、赦しを求めて進んでいくことです。イエスが隣人に対して犠牲的な愛を示されたように、私たちも自分のために生きる人生は終わって人のために生きる人生が始まったのです。彼らの益のために、彼らの信仰が成長するために何をすればいいのか?自分の幸せよりも人々の幸せを優先しましょう。そのように主イエス・キリストは歩まれたのです。
そして、そのキリストの愛があなたのうちにあるのです。だから、私たちがしなければならないことは、いつも、自分の心を吟味することです。自分はどのように日々を過ごしているのか?そのことを吟味するのです。主に対してすべてのことを心から行っているのかどうか?と自分に問い掛けてみることです。人に対していかなる悪も行っていないかどうか?却って、彼らの信仰の成長や彼らの幸せのためにすべてのことを行っているかどうかを確認しながら生きていくのです。そのような人に私たちは生まれ変わったのです。神を恐れる人として私たちは生まれ変わったのです。
この天使はまず、救いに与っていない人々にこのメッセージを語っています。救いに与っている人たちは神を恐れる者として生まれ変わったのです。ソロモンはこのように言っています。「…神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(伝道者の書12:13)と。私たちにとって最も大切なこと、それは「神を恐れること、神の命令に従って生きていくこと」と言います。だから、信仰者の皆さん、あなたはこのような新しい人生を神によって始めたのです。神があなたを通して働いておられるのです。そのように歩み続けることです。神を恐れて生きる人生を実践し続けていくことです。神はあなたを通して働き続けてくださいます。
2)「神をあがめよ」との命令
二つ目に天使が語ることは「神をあがめよ」です。マスターズ神学校のDr.トーマスは「この『神をあがめよ』とは悔い改めることのイディオムである。」と言います。その熟語だと言います。「神をあがめよ」というのは「悔い改めなさい」ということだと。なぜなら、先に説明しました。未信者はこの患難時代の終わりにあって、偽キリスト、サタンを崇拝する生活を継続しています。彼らを神として歩み続けていたのです。ですから、天使はその罪を悔い改めて、真の神であるお方に栄光を帰しなさいというメッセージを語るのです。
7節に「神をあがめよ」と書かれていますが、これは「神に栄光を帰す」ということです。人間の大きな罪は神に栄光を帰さないことであると、そのように聖書は教えています。ローマ1:21にパウロはそのことを教えています。「それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。」、人間の罪、私たちは罪と言うと、うそをつくこと、悪いことをすると言いますが、神の前における最も大きな罪は「真の神である方、私たち造られた被造物が栄光を帰すべきお方に栄光をささげないこと」です。人間の最高の目的は、ウエストミンスター大教理問答に依れば「神の栄光を現し、永遠に神を全く喜ぶことである」と言います。その通りです。そのために私たちは造られたのです。皆さん、ぜひ、忘れないでください。なぜ、神はあなたを造ってくださったのか?それは、あなたを造った神にあなたが栄光をささげるためです。
この神のすばらしさを証するために、あなたは造られたのです。この世は全く違うことを言います。あたかも、あなたは偶然に生まれて来たかのように、ゆえに、あなたは自分の人生を好きに生きるようにと言います。聖書はそのようには教えていません。あなたは偶然に生まれて来たのではありません。あなたは造られたのです。あなたを造ってくださった神は、あなたがあなたを造った神に栄光を帰すように、この方のすばらしさを証するようにと、その目的をもって造っておられるのです。だから、罪を犯しているとき、神に逆らい神の敵として生きているときはそのような生き方をしていませんでした。しかし、私たちが救われて新しく生まれ変わったことによって、初めて、その目的に沿って生きる者へと変えられたのです。これが救いです。パウロは「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」(Ⅰコリント10:31)と言いました。なぜなら、これが私たちが生かされている目的だからです。これが私たちが造られた目的だからです。神の栄光を現すために、神に栄光をささげるために造られた私たちが、そのことを全くしていない、だから、神はあなたのことを罪人と呼ばれたのです。
なぜ、このメッセージ、この命令に耳を傾けることが必要なのか?その理由が記されています。「神のさばきの時が来たからである。」(7節)と。実は、「さばき」ということばは黙示録においてはここが最初に出て来る箇所です。この後に、16:7や18:20、19:2に「さばき」が出て来ます。そして、この「さばき」について16章から学んでいきます。そこには詳しく「最後のさばき」が書かれています。そして、それが終わると、主がこの地上に帰って来られるのです。
皆さんに見ていただきたいのは、「神のさばきの時が来たからである。」ということばです。今話しました。まだ、この後さばきがあります。そして、イエス・キリストが帰って来られるのです。ところが、この7節のことばは「…来たからである。」と、「…来るであろう」という未来のことを言っていません。あたかも、もうそれがやって来たかのように記しています。なぜ、このような時制を使っているのか?もうすでに起こったことのように記されているのは、これが確実に起こることだからです。実は、この後、バビロンが崩壊することが書かれています。そこでも同じ時制が使われています。ですから、このように「不定過去」という時制を使っているときは、未来のことを、それが確実に起こるということを教えようとするのです。ですから、この7節が言わんとすることは「神のさばきの時は必ず来る」ということです。そのことを明らかにしたのです。
だから、今、この救いのチャンスがあるときに、神の救いのメッセージに心を開きなさい、この救いに与りなさいと、このように天使は語るのです。この与えられた機会があなたにとって赦しに与る最後の機会なのだから、今、この救いを受け入れなさいと。
3)「天と地と海と水の源を創造した方を拝め」と命じられた
つまり、創造主である神を拝みなさいと命じるのです。イザヤ書40:21-26をご覧ください。「:21 あなたがたは知らないのか。聞かないのか。初めから、告げられなかったのか。地の基がどうして置かれたかを悟らなかったのか。:22 主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。地の住民はいなごのようだ。主は天を薄絹のように延べ、これを天幕のように広げて住まわれる。:23 君主たちを無に帰し、地のさばきつかさをむなしいものにされる。:24 彼らが、やっと植えられ、やっと蒔かれ、やっと地に根を張ろうとするとき、主はそれに風を吹きつけ、彼らは枯れる。暴風がそれを、わらのように散らす。:25 「それなのに、わたしを、だれになぞらえ、だれと比べようとするのか」と聖なる方は仰せられる。:26 目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。」。
今は、目を高く上げて自然界を見たいシーズンです。どこを見てもとても美しいです。みことばは私たちに教えます。「見てご覧なさい。あなたの周りを。それらはすべて創造されたものだ。」と。だれがそれらを造ったのか?なぜ、このシーズンになると花が咲き若葉が美しいのか?様々な虫が飛んで来て、だれが教えるのか?この自然界の摂理を見て私たちが気付かなければいけないのは、これは偶然にできたのではなく、すべて創造されたのだということです。
パウロの伝道を見たときに、とても興味深いことに気付きます。彼がユダヤ人たちに伝道するときは、必ず、旧約聖書から語ります。なぜなら、ユダヤ人たちは旧約聖書に通じていたからです。ですから、パウロは旧約聖書から、このイエス・キリストこそが約束の救世主なのだと明らかに証明していくのです。ところが、異邦人に語るときは別でした。神がどのようなお方であるのか?つまり、神とは創造主であるということを人々に伝えました。まさに、「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。」ということです。パウロたちがルステラという町を訪問しました。そのときに一人の生まれつき足が不自由な人を癒します。群衆はそれを見て「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ」(使徒14:11)言って彼らのためにいけにえをささげようとします。そのときにパウロはこんなことを言っています。
使徒の働き14:15-17「:15…「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。:16 過ぎ去った時代には、神はあらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられました。:17 とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。」、パウロたちは出て行って、人々に神がどのようなお方であるかを語ったのです。
なぜ、パウロはこのようなことを特に異邦人たちにしたのでしょう?パウロがアテネに行ったときもそうでした。神とはどういうお方であるかを明らかにし、神は創造主だと語りました。その理由は、彼らが「自分は罪人であることを悟るため」です。私たちのように、神と名の付くものが溢れている国に生まれ育った者は、聖書の神のことを聞いてもよく分かりません。皆さんはどうでしたか?私は初めて聖書の神について聞いたとき、アメリカ人の神のことを話していると思いました。聞いたこともなかったからです。私たちには多くの神がいるのですから、一つくらいそれに加えても…と思いました。そのような考えをもっている人間に罪のことを話しても分かりません。もし、私たちが創造主を明らかにし、あなたが創造主によって造られたと言うとき、サタンはダーウィンの進化論を見事に使います。そのメッセージは「私たちは偶然生まれて来た、進化した。」です。もう少し言うなら、なぜ、子どもたちが中学生になると教会から離れていくのか?それまでは教会で神がすべてを造ったと教えられて来ましたが、中学校では先生たちが、それはみな宗教であって科学はすべてが進化したと教えるからです。
だから、聖書の教えは宗教であって科学的なものではないといって彼らは離れていくのです。サタンはいかにクレバーであるか、悪賢い存在であるかは明らかです。だから、私たちが伝えなければならないメッセージは、神とはかつての偉人ではありません。人間が作った像でもありません。神とは、このすべてを造った創造主なるお方です。その神がおられることが分かれば、私たちが造られたことが分かります。造られたことが分かれば、何のために造られたかを考えます。そして、私たちはその目的に沿っていないということに気付きます。それが罪だということに気付きます。だから、パウロは異邦人の間で、神とはどういうお方であるかを語ったのです。私たちも同じです。人々に教えなければなりません。神とはどういう存在であるかを…。
バークレー師はこのように言っています。「信仰の第一歩は、我々が神の被造物であり、神が我々の創造主であることを発見することである。創造主の前に置かれた自分に目を向けるときに、初めて、罪観念が生じ、救い主の必要を認めるのである。」と。私たちは神がどのようなお方であるかを伝えなければいけません。私たちの神、聖書が教える真の神は、このすべてのものをお造りになった創造主なる神です。天使はそのメッセージをここで未信者たちに語るのです。なぜなら、これは全世界の人々に対するメッセージだからです。多くの異邦人たちにこのメッセージが語られるのです。「神は創造主なるお方である」と。
今日、私たちは「第一の御使い」しか見ることができませんでした。まとめるとこうなります。神は約束通りに、罪のさばきを下されます。そして、今、私たちが見て来た神のみことばによって、さばかれるのはその罪人に原因があるということが分かったはずです。なぜなら、神は救いの手を差し伸べておられるのに、その手を払い除けこの救いを拒み続けているのは、罪人そのものです。神が罪を赦そうとしてくださっているにも拘わらず、頑なに、罪の心を開いて主が与えてくださる救いを受け入れようとしないのです。そして、あなたに救いを与えようと忍耐をもって待っておられる主ではなく、なおも、サタンに従い続けているのです。だから、その人に対して正当なさばきが下されるのです。
この中に、あなたの創造主なる神に心を閉ざし、逆らい続けている方はいませんか?主はあなたの罪を赦してくださる。自分の罪を悔い改めてこの救い主のもとに出て来ることです。信仰者の皆さん、あなたは心から主に仕えていますか?主への恐れが、あなたの信仰の歩みの動機になっていますか?形だけの、見せ掛けだけの信仰者ではありませんか?自分の心を吟味することです。そして、私たちに救いを与えてくださったこの恵みの主に心から従い続けることです。感謝をもって、救われたことを喜びながら…。まさに、これこそ、私たちに与えられたすばらしい特権であることをしっかり覚えましょう。
《考えましょう》
1. 天使が「永遠の福音」を宣べ伝えた理由をお答ください。
2. 7節の「神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め。」を説明してください。
3. 罪人がさばかれる理由を挙げてください。
4. 今日のみことばから、あなたが教えられたことを分かち合い、その実践に励んでください。
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