Messenger: 近藤修司
Passage: 黙示録14:1‐5
Listen: メッセージを聴く
Read: メッセージを読む
ヨハネの黙示録14章をお開きください。
前回、私たちは「666」という大変興味のある獣の数字の意味を見て来ました。人を指すと言われている「6」、この数字が三度繰り返されることによって、にせキリストもにせ預言者もこの獣は人であるということが強調されていることを見てまいりました。しかも彼らはいつまでたっても「6」であって、神の数字である「7」には決してならない。つまり彼らがどんなに神になりたいと願っても、人々をだまし続けたとしても、彼らが神になることは絶対にないということを我々は見ました。
アダムとエバが罪を犯して以来、この世を支配して来たサタンは必ず敗北するということを、我々は11:15で最後のラッパが吹き鳴らされた様子で見てきました。その時、賛美が沸き起こり、遂に主がサタンからのその支配権を奪還し、サタンに対して完全な勝利を得られるその時が来たと言って、天使たちを含め天の軍勢たちがそのことを感謝している様子が記されていました。その日が必ず来るのです。サタンは必ず敗北し、彼らのために備えられた永遠の地獄へと送られることが定まっています。11:15で最後のラッパが吹かれ、そして最後の災いがこの地に及ぶのです。でも実際にその災いについては16章になるまで記されていません。既に学んできた12章や13章は人類の歴史なのですが、どちらかというとそれをサタンの観点から見て記してありました。ですから13章にある獣については、こういった働きをサタンが行ない、人々を惑わし続けて行くということを見たわけです。でも最後には彼らは殺されてしまうと。
私たちはきょう14章に入って行きますが、ここにはサタンのさまざまな働きに対する勝利が記されています。この14章の初めから私たちはその勝利者たちについて学ぶのですが、かなりの量のみことばを見て行くこの学びを通して、あなたの信仰がチャレンジされることを期待します。主に喜ばれる歩みをする者たちが記されています。そして神はあなたにもそのように生きることを求めておられるのです。
A.「勝利の主」 1a節
1.「小羊」
14:1をごらんください。「また私は見た。」、ヨハネが新たな幻を見たことを記しています。どんな幻かというと、その後に「見よ、小羊がシオンの山の上に立ってい」ると続きます。この箇所が私たちに教えてくれる、サタンとその手下たちに勝利する勝利者は、まず小羊、主イエス・キリストです。もう既に黙示録の5章や7章、そして17章にもこの小羊に関することが記されていて、ほとんどのところは私たちが学んだところです。
- 封印を解くのにふさわしい唯一のお方 5:5
小羊というのはだれも解くことのできなかった封印を唯一解くことのできるお方であると5章の中に記されていました。 - 人としてこの世にお見えになり、十字架での身代わりの死によって完全な罪の赦しを完成してくださったお方:5:6
- 人々を神のために贖い、王国とし、祭司とされるお方 5:9、10
- すべての贖われた者と天使たちから称賛を受けるにふさわしいお方 5:11-14、7:9-10
なぜならこのような偉大なみわざをなしてくださったお方だからです。人として来られ、十字架であなたや私のすべての罪を贖ってくださり、そして私たちを生まれ変わらせてくださり、永遠の希望を与えてくださった。だからこの主によって贖われた者たちは、この方をほめたたえ続けると。 - 罪を洗いきよめてくださるお方 7:14
- 信じる者たちの羊飼いとして守り導いてくださるお方 7:17
また同じ7章には信じる者たちの羊飼いとして守り続けてくださることが記されています。 - 主の主、王の王であられる方 17:14
だからすべての被造物によってほめたたえられるべきお方である。大変な神、驚くべき神です。そしてこの方が遂にサタンからその支配権を奪い取り、すべてを治められると。
2.「シオンの山」:エルサレム イザヤ24:23 ヨエル2:32
「シオンの山に立って」おられると書かれていました。この「シオンの山」はエルサレムのことです。主イエス・キリストはシオン、エルサレムに帰って来られます。イザヤ24:23に「月ははずかしめを受け、日も恥を見る。万軍の主がシオンの山、エルサレムで王となり、栄光がその長老たちの前に輝くからである。」と。この光景がおわかりになります?主イエス・キリストが約束されていたようにこの地に帰って来られるのです。そしてこのエルサレム、シオンの山で王として、その後に続く千年王国を治めて行かれるのです。その様子がここに記されているのです。主イエス・キリストが天に凱旋された様子を見ていたイエスの弟子たちに対して天使は必ずその主が再び帰って来られると告げました。その主が地上に帰って来られ、千年王国を築かれる。イザヤ書はまさにその様子を私たちの教え、ヨハネはその時が来たことをここに記しているわけです。この幻をヨハネは見たのです。
さて、この「小羊がシオンの山の上に立っていた。」というのは、神学者の間では、これは天における出来事ではないかと強く信じる方たちもいます。しかしどう見ても天での話ではなくて、地上でのことであると私たちは信じるわけです。その理由を今から言います。1節の続きに「また小羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった」と書いてあります。実はこの「十四万四千人」、私たちは7章のところでその数に触れました。黙示録7章の中にもイスラエルの十二の部族からそれぞれ「一万二千人」ずつ、それを合計すると「十四万四千人」であると。確かに同じ数字が記されています。7章の中の「十四万四千人」とここに出て来る「十四万四千人」は非常に類似した点があります。7:3を見ると、「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで」と記されています。4節には「それから私が、印を押された人々の数を聞く」とあります。「印」、判こを押されるという話です。14章の中にも「その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった」と、そこに判こが押されているという話で、非常に類似しています。ですからこの7章の「十四万四千人」と14章の「十四万四千人」は同じグループであると見るのが自然です。
もしこれが天においての出来事であるとしたら、この「十四万四千人」はもう既に天にいることになります。しかし我々が7章で見た「十四万四千人」というのは、患難時代においてイエス・キリストの福音を伝える伝道者です。しかも、この7年の患難時代、彼らはいのちを落とすことなく、神によって守られて福音のメッセージを語り続けて行く者たちです。大変な迫害があって多くの人たちがいのちを落として行く中、この「十四万四千人」はいのちが守られて福音のメッセージを語り続ける。つまり彼らは死を経験することがないのです。死んでいないから彼らはまだ天に上がっていない。地上にいるのです。ですから主イエス・キリストが地上に帰って来られた時に、この「十四万四千人」は主とともにこの「シオンの山の上に」立つと見るのが自然です。
ジョン・ワルボード先生は、「これはキリストの再臨に続く小羊の究極的な勝利の預言的幻であり、その時キリストは千年の支配を始めるに当たって十四万四千人とともにシオンの山に立つというものである。」と。千年王国の支配を始める前に、主イエス・キリストご自身が、この小羊であられる方がこの「十四万四千人」とともにシオンの山に立つのだと。この14:1は、主イエス・キリストがこの地上に、エルサレムに帰って来られる時にこの「十四万四千人」も彼とともにそこにいると教えているのです。
そして彼らはイエス様とともに千年王国に入るわけですが、彼らは千年王国に入っても主イエス・キリストの福音を語り続けて行くのです。もちろん千年王国の間にキリストの福音を語るのは彼らだけではなく、救われた私たちもです。そうして千年王国にイエス様を信じる人たちが興されて行きます。少し混乱するかもしれないので整理すると、千年王国が始まる時に千年王国に入ることができる人たちは、栄光の体を持って入る私たちと肉体を持って入る人たちと二種類います。
共通しているのはどちらも救いに与っている者たちです。肉体を持って入る人たちは患難時代を生き延びたクリスチャンたちです。その人たちが今の私たちと同じ肉体を持って千年王国に入って行きます。そしてその千年間、彼らは今と同じように家庭を持ち、子どもを産んで行きます。救いが必要なのはその子どもたちです。ある人たちは救いに導かれて行きますが、ある人たちは救いを拒み、最後の時に千年間捕えられていたサタンが解放された時に惑わされてサタンとともに神に逆らうことが記されています。ですから千年王国の間には今と同じように多くの子どもたちが生まれ、ある者はこの救いに与り、ある者は救いを拒み永遠の滅びに至るのです。
ゼカリヤ8:23がおもしろいことを言います。「万軍の主はこう仰せられる。『その日には、外国語を話すあらゆる民のうちの十人が、ひとりのユダヤ人のすそを堅くつかみ、「私たちもあなたがたといっしょに行きたい。神があなたがたとともにおられる、と聞いたからだ。」と言う。』」と。これは、千年王国において神がこのイスラエルを祝される様子を見て、救われていなかった者たちが、私たちもあなたの神をともに礼拝したいと言って、この救いに与るという預言です。先ほどお話ししたとおり、千年王国においてもイエス・キリストを信じる人が興されて行くのです。ですからこの「十四万四千人」は患難時代だけではなく、患難時代のすべての迫害を生き延びて入って行く千年王国でも、彼らはこの福音を宣べ伝える者としてその働きを継続して行くのです。
B.「勝利者たち」 1b-5節
続けて14:1を見ると、確かに主イエス・キリストのことが記されていました。彼は主の主であられ、王の王であられるまことの神であられ、完全にサタンに勝利なさる方です。そして同時に、この「十四万四千人」が勝利者として記されています。そのことが1節の後半から5節の終わりまで書かれています。彼らがどんな人々なのか、みことばが教えることを見て行きましょう。
1.「主に属する」 1節
この勝利者である「十四万四千人」は主に属する者たちです。先ほどもお読みしましたが、1節の後半に「その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった」とあります。つまり判こが押されているということです。これは少なくとも二つのことを意味します。一つは所有者を表しているのです。一体だれが所有者なのかを表しています。つまり彼らの所有者は小羊であるイエス様であり、父なる神である。彼らの所有物だと教えられています。彼らは主イエス・キリストと父なる神に属する者たちであると。そういう点から言えば、あなたもこの神に属する者です。救いに与っているということはそういうことです。私たちはこの神に属する者として、神からそのしるしをいただいている者です。
また、このしるしを受けるということは保護を表します。守りの話です。つまりこの判こを押されることによって、その主人の保護下に置かれることを意味するのです。私の所有だから私が守るという話です。だからこの人たちは神によって判が押され、神が守るとされた人々です。先ほども触れたようにあなたも神様によって守られているひとりです。確かにこの「十四万四千人」はユダヤ人ですが、救いに与った私たちは彼らと同じように神の守りのうちにあるわけです。神の所有物であり、神の守りのうちに私たちは置かれています。だからイエス様がヨハネ10:28で「だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」と言われたように、神が私たちを捕えてくださっている、神があなたを守ってくださっているから、だれも神の手からあなたを奪い去るようなことはない。神によって救われた者は永遠に救われています。そしてあなたは決してひとりぼっちにならないということです。周りに人がいなくても、神がともにいてくださる、その約束をこのみことばは私たちに教えてくれています。
2.「主を称賛する」 2-3節
二つ目にこの「十四万四千人」の勝利者たちは主を称賛する者です。神をほめたたえている様子をこの2-3節の中に見ることができます。2節に「私は天からの声を聞いた。」と、ヨハネは再び天からの声を聞くのです。これまで4:1や10:4、8、11:12また12:10にも確かにヨハネは天からの声を聞いて来ています。ここで再び彼は天からの声を聞くのです。その天からの声はどういうものかというと、「大水の音のようで、また、激しい雷鳴のようであった。」と、大変大きな音でした。一体何が起こっているのか、実はこれと同じような表現がもう少し後ろの黙示録19:6に出て来ます。そこには、「また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。」とあります。非常によく似ています。この19:6ではその大きな音は「大群衆の声」であると教えています。つまり天の軍勢の賛美の声です。数え切れないほどの大勢の者たちが神をたたえている様子がそこに記されています。
しかも14章を見ると、「大水の音、激しい雷鳴」だけではなくて、「また、わたしの聞いたその声は、立琴をひく人々が立琴をかき鳴らしている音のようでもあった。」と続きます。「立琴」が出て来ます。ジョン・マッカーサー先生はこの「立琴をひく人々が立琴をかき鳴らしている音のよう」の意味は、喜びを表した歌声であると説明しています。「立琴をかき鳴らしている」というのはただ賛美しているだけではない。もちろん賛美というのは喜びの表れですが、特にここでは賛美しているひとりひとりが喜びに満ちあふれて神をたたえている様子を表していると。実際に旧約聖書において喜びの賛美と「立琴」というのはたびたび結びつけられています。旧約聖書の中に幾つもその箇所が出て来ます。ですから、主イエス・キリストが約束どおり地上に帰って来られ、サタンから支配権を奪い、千年の間このすばらしい王国を築かれる、そのことを彼らは賛美しているのです。その賛美の声をヨハネは聞いているのです。
続けて3節に「彼らは、御座の前と、四つの生き物および長老たちの前とで、新しい歌を歌った。」とあります。この「四つの生き物」は天使たちです。「長老たち」、特に5章の中で私たちが見て来たのは「二十四人の長老」たち、これは教会を代表していた。救われた者たち、クリスチャンたちであるということを見て来ました。ですから「十四万四千人」が彼らの前で「新しい歌」を歌うのです。つまりもう既に彼らは、この神への賛美を捧げているのです。喜びをもって、神様をたたえている、そこにこの「十四万四千人」も加わるという話です。
この「新しい歌」は、贖いの歌、救いの歌です。なぜそれがわかるかというと、その後「しかし地上から贖われた十四万四千人のほかには、だれもこの歌を学ぶことができなかった。」と書いてあります。「十四万四千人」は学ぶことができたのです。そうでない人々は学ぶことができなかった。何が違うのかというと、「地上から贖われた」とヒントが出ています。ですから「贖われた」者たちは、この歌を歌うことができ、贖われていない者はこの歌を歌うことがないのです。この「学ぶ」というのは、理解するとも言えます。贖いの歌を歌う、救われた喜びを歌うためには救われていなければ歌えないという話です。 「十四万四千人」がこの「新しい歌」、救われた賛美をするのは彼らが救われているからです。救われていない人たちはそれがどんなにきれいなメロディであったとしても歌うことができない。アメージング・グレイスという曲があります。訳せば「驚くばかりの恵み、何と甘美な響きよ。私のような憐れな者を救ってくださった」となります。
それにアーメンと言えるのは、この救いに与っている者たちだけです。どんなにこの世の有名な歌手がこの歌を歌ったとしても、彼らにはその救いを感謝する思いはありません。まさにその姿がここにあるのです。神をほめたたえている軍勢たちの中にあって「十四万四千人」は「新しい歌」、救われた喜びを歌うのです。なぜなら彼らは救われているからです。だからこの「新しい歌」はこの救いに与った喜び、贖いの歌です。今まで私たちも聞いたことのないような大合唱が、天において、地上においてなされるのです。すべてがこの偉大な主を、我々の贖い主であるこのイエス・キリストを、父なる神をほめたたえる賛美です。地上にいる者も、既に天に凱旋した者たちも、天使たちもそこに加わって、しかも新約の者たち、旧約の者たちすべてがこの偉大な神様をほめたたえる。その光景がここに記されています。圧巻ですよね。感謝なことに私たちもそこに加わっていて、一緒になって主をほめたたえるのです。
3.「主の栄光を現わす」 4-5節
三つ目は、彼らは主の栄光を現わす存在です。4節「彼らは女によって汚されたことのない人々である。彼らは童貞なのである。」とあります。ここからヨハネはこの贖われた者たち「十四万四千人」の四つの特徴を表しています。
1)「聖潔」:4a節
一つ目の特徴は聖潔さということです。これが彼らの一つ目の特徴です。それがお読みした14:4に出て来ます。聖潔というのはきよさです。二つのことが言えます。一つは教理的なきよさ、もう一つは性的なきよさです。
(1)「教理的きよさ」
というのはこの世の終わりになれば、ますますにせ教師たちがはびこり、彼らが偽りの教えを持ち込んで来ます。今も我々はその兆候を実際に目撃しています。教会の中にいろいろな教えが入り込んで来ています。この「十四万四千人」は、そのような偽りの教師やにせキリスト、そしてにせ預言者の教えを聞いていても、その教えに惑わされることがなかった。教理的な純潔を保っていたのです。教えにおける真理にしっかりと立ち続けるというきよさです。それは皆さんひとりひとりにも言えることです。いろいろな教えがあっても、あなたが立たなければいけないのは神様のおことばである聖書です。この聖書の教えに立つのです。人はいろいろなことを言うでしょう。著名な皆さんはいろいろなことを言われるでしょう。でも私たちが耳を傾けなければいけないのは、神が何と言われているかです。どんなに著名な人でも彼らが私たちを贖ってくれたのではない。贖ってくださったのは神様です。その方に従うのが私たちです。この「十四万四千人」は、神の教えに従い続けて、どんなに間違った教えが入ってきても、彼らの信仰は揺るぐことはなかったのです。
(2)「性的きよさ」
二つ目に彼らは性的なきよさを保つわけです。今の我々のこの社会も大変乱れ切った世の中です。先日も訪問してくれた宣教師と話をしていて、残念ながらあの自由の国アメリカよりも日本の方が道徳的に堕落しているようだと言われました。彼らが一番驚くのは、どこに行ってもアルコールの自動販売機があり、たばこの自動販売機があり、ポルノ関係の自動販売機があると。そんな国はほかに見たことがないです。人々はそういう誘惑にさらされてしまっている。私たちの今の社会を見た時に、大変道徳的に乱れていることがよくわかります。性的な罪というのはどこにでもあるわけで、そういうものがいつもマスコミをにぎわしています。でも患難時代の終わりになれば、こんなものではありません。もっと道徳的に堕落して行きます。
その証拠が、実はⅡテサロニケ2:7に記されています。「不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。」と教えます。ではこの「不法の秘密」とは何かというと、これは罪であり悪の話です。つまり神に逆らう人たちは罪の限りを尽くしています。そしてみことばが教えるのは、患難時代には今よりもそれがもっとエスカレートするということです。なぜかというと、「引き止める者……が取り除かれる時」が来るからです。
この「引き止める」というのは、制止または妨げによってある人があることを行なうことを防止するということです。ですからだれかが何かしたいのだけれど、それをさせないでおく力が働いているということです。聖霊なる神様のことです。聖霊なる神様はこの世の悪が増大するのを現時点では止めておられるのです。大変な時代ですが、これも神が止めておられるのです。しかし、この時、すなわち患難時代の終わりになると、その働きをやめられて人々の好きにさせるという話です。聖霊がいなくなるというのではない、この働きをやめるということです。
罪人がもっともっと罪を犯して行きたいとするゆえに、では好きにしなさいと、そういう時代が来るのです。そうすると、世界じゅうに大変な悪がはびこります。性的な不道徳が今よりもはるかに横行する。この「十四万四千人」がいるのはこういう時代なのです。その中にあって彼らは、その性的なきよさを守るのです。パウロはⅡテモテ3:4で「神よりも快楽を愛する者にな」ると教えています。今もこの世界はそういう人たちであふれていますが、その時代になるともっとひどくなるのです。この「十四万四千人」はそういう罪から自分たちを守っていると。
今、親たちは自分たちの子どもたちを、また孫たちを大変な時代に送り出していることを痛感しているはずです。少し怖いのは、性的な罪も何回も聞いているうちに麻痺してきて、みんなもやっているからそれでいい、楽しければそれでいい、自分が満足したらそれでいいと。そういう時代に生きているのですから、若い人たちだけではなくて、すべての人たちが大変な注意を払わなければいけません。
旧約聖書のヒーローのひとりであるヨセフがどのようにして自分をきよく保ったのか教えてくれているので、皆さんのご参考に少し紹介したいと思います。ヨセフは兄弟たちによってイシュマエル人に売られ、エジプトへと行くわけです。でも神はヨセフを大いに祝し、彼が売られて行ったエジプト人の家庭が非常に栄えました。そこでその主人はヨセフに大変な責任を託すわけです。そこに問題がありました。この主人の妻が彼に言い寄って来るわけです。その時に創世記39:9でヨセフがこんなことを言っています。「どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」と。主人の妻から言い寄られて、罪を犯すように誘惑されるのです。その時にヨセフは「そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」と答えたのです。つまりヨセフは主を恐れ不貞を働くことが悪であり、また神への罪であるということを認識しています。みんながやっているからいいではないのです。
この罪は神に対するものであることを彼はちゃんと認識していたのです。
10節にはこう続きます。「それでも彼女は毎日、ヨセフに言い寄ったが、彼は、聞き入れず、彼女のそばに寝ることも、彼女といっしょにいることもしなかった。」、ヨセフが私たちに教えてくれる二つ目の方法は、彼女から距離を置くことです。その誘惑に近づかないようにすることが誘惑に陥らない秘訣です。あなたを誘惑するものからできるだけ距離を置かなければいけない。我々は自分自身を信頼することをやめなければいけません。大丈夫だと思っていることに問題があるわけです。我々は大丈夫ではないのです。ですからヨセフがしたように誘惑から距離を置くことです。
三つ目に私たちが見ることができるのは、12節「それで彼女はヨセフの上着をつかんで、『私と寝ておくれ。』と言った。しかしヨセフはその上着を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。」と書かれています。
「逃げて」とあります。この動詞はそこから逃れるとか、逃亡する、逃避するという意味です。つまりヨセフは誘惑からどうやって自分の身を守ったかというと、その誘惑から逃げ出すのです。距離を置くだけではない。誘惑が襲って来た時にそこから逃げ出すのです。とどまっていないのです。こうしてヨセフは自分をきよく保ちました。我々も彼らの歩みを参考にしながら、罪から私たち自身をきよめ続けて行くことです。
2)「服従」:4b節 ヨハネ10:27 Ⅰペテロ2:21
「十四万四千人」の二つ目の特徴は服従です。続けて4節を見ると、「彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く。」とあります。彼らの特徴は主に従い続けて行くということです。それはまさにクリスチャンの特徴でもあります。ヨハネ10:27でイエス様が「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」と言われます。それが救われた者たちの特徴です。主に従って行こうとするのです。この特徴を見ると、まさに彼らが救われていたことが明らかです。
しかも彼らはただイエス様に従おうとしただけではありません。どのような犠牲が伴おうと彼らは主に服従することを決心していました。ちょうど黙示録2章の中でスミルナの教会に対して主が「死に至るまで忠実でありなさい。」(黙示録2:10)、忠実であり続けて行きなさいと言われました。どのようなことがあろうと、たとえそれによって死が訪れようと、主に対して忠実であれと。それが神があなたや私に望んでおられること、命じておられることです。なぜかというと、ペテロがⅠペテロ2:21で「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」と教えてくれます。
なぜ神があなたや私にいのちがけで従って来なさいと言うかというと、イエス様ご自身がいのちをかけて父なる神のみこころに従ったからです。あなたをその罪から救い出すためにイエスはご自分のいのちを捨てて、その犠牲をもってあなたを救ってくれたのです。主イエス・キリストが人としてこの地上に来られた時の歩みを見た時に、確かに彼はいのちをかけて主に対して、父なる神に対して服従された。だからなのです。我々の目標である、模範であるイエス様が歩んだように私たちが生きて行くように、当然神は私たちに要求されるのです。そしてこの「十四万四千人」はそのように生きたのです。まさに服従の生活です。
(1)「神および小羊に捧げられる初穂」 ローマ12:1b
その4節の中に非常に興味深いことが記されているので、その後を見てください。「彼らは、神および小羊にささげられる初穂として、」とあります。「初穂」というのは収穫のうちで最もよいもの、最良のものを人々は主に捧げました。この「十四万四千人」は自分たちが神への初穂であると考えたのです。つまり彼らは私は、そして私たちは私のすべてを神に捧げるのだと決心してそのように生きていた、そういう人々だったのです。
この彼らの決心を耳にして、彼らは特別な者たちだと思わないでください。なぜならこの命令はあなたにも神様がされているからです。ローマ12:1のみことばを思い出してください。
「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」とあります。神様はあなたのその行動だけを見て喜ばれるのではない。あなたの心を見ておられる。本当にあなたのすべては神のものです。神があなたを買い取ってくださったのですから、私たちのものはなくなったのです。すべて神のものなのです。だから神にすべてを捧げようとするし、神のために生きて行こうとする。そのことを神様は私たちに命じておられるし、そのようにこの「十四万四千人」が生きていたということがこのみことばに記されているわけです。
(2)「人々の中から贖われた」 Ⅰコリント6:20、7:23、Ⅰペテロ1:18-19
またその後に「人々の中から贖われたのである。」とあります。この「十四万四千人」はなぜ神が私を贖ってくださったのか、なぜ私を救ってくださったのか、その目的を知っていたのです。それは救われた私が私のすべてをこの方にお捧げしてこの方に従っていくためであると。繰り返しますが、それは神ご自身があなたに求めておられることでもあります。
パウロはⅠコリント6:20で「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」と言います。同じⅠコリント7:23にも「あなたがたは、代価をもって買われたのです。」とあります。ですからイエス様がいのちをもってあなたを罪から買い取ってくださった。私たちはもう神のものなのです。ですから当然私たちはそのすべてを神に捧げて、この方に従って行く、その決心をして生まれ変わった者たちなのです。そのように彼らが生きていたということがここに記されています。
3)「真実」:5節 マタイ5:34-37 Ⅰペテロ2:22
そして三つ目にこの「十四万四千人」は真実である。それが彼らの特徴の一つです。5節に「彼らの口には偽りがなかった。」とあります。彼らは常に真実を語っていたということです。マタイ5:34-37の山上の説教で、イエス様が「天をさして」、「地をさして」、また「頭をさして」誓ってはなりませんと教えられました。そして最後にイエス様は「『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。」と言われています。
なぜ我々が誓うのかというと、それは自分の言っていることが真実であることを信じてもらいたいためです。私の言っていることが本当だということを信じてもらうために神に誓って言うのですが、もしあなたが普段から真実を語っているのだったら、誓う必要はないとイエス様は言われたのです。あなたが常に真実を語っているのなら人々はあなたの言うことを信じると言うのです。この「十四万四千人」は口に偽りがなかった、まさにイエス様が歩まれたように彼らは真実を語り続けていたのです。主イエス・キリストに関してもペテロはⅠペテロ2:22で「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。」と言っています。イエス様もそうだったのです。彼らはそのように歩みました。
4)「霊的」:5節
最後、彼らの特徴の四つ目は霊的であったということです。5節の後半に「彼らは傷のない者である。」と書いてあります。つまり非難されるところがない者たちだという話です。彼らも我々と同じ人間ですから彼らのうちにも罪があり、罪を犯すこともありました。しかし彼らは非難されるところがない、霊的な生き方を人々の前で示し続けている者たちでした。彼らはいつも主に喜ばれることを考えて生きていたのです。信仰が成長し、非常に霊的な存在だとこの箇所は教えます。
・ 救われた目的について……エペソ1:4
神はあなたにそのことを求めておられることをあなたは覚えておられますか?主イエス・キリストはあなたを生まれ変わらせてくださったのです。ただ罪の赦しと天国の切符を与えただけではないのです。あなたを新しく生まれ変わらせて、あなたが非難されるところのない者、つまり霊的な者として成長するために、そしてあなたが霊的な者として成長して行く過程を通して、神はご自身の栄光を人々に明らかにされて行く、これが神様があなたを救ってくださった目的だとみことばが教えています。例えばエペソ1:4には「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」とあります。世界を造る前から、神様はあなたを選んでくださっていた。それはあなたをただ救うだけではない。あなたをきよくし、あなたが傷のない者、責められるところのない者に神はあなたを変えて行こうとすると言うのです。だから我々信仰者が覚えなければいけないのは、あなたの信仰が成長し、非難されるような罪を犯し続けるような者ではなくて、正しく生きることによって、あなたを救い、あなたを守り、あなたを導いておられる神様があなたを通して明らかにされて行く、そのために神はあなたを救い、あなたにこの日を下さっているということです。
・ 救われた者の責任・務めについて……ピリピ2:15
ピリピ2章を開いてください。15節「それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり」と、ここにも記されています。あなたが、「非難されるところのない純真な者」となることによって、この「曲がった邪悪な世代の中にあって」あなたが「傷のない神の子どもとな」って「いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くため」、証のためだと言っているのです。あなたが「非難されるところのない」者、信仰において成長することによって、あなたはこの世界において、あなたが住んでいる家庭や社会や学校において証人としてキリストの栄光を現わすために神様はあなたを救ってくださったのだと書かれていました。我々信仰者は、確かに神様によって変えていただきたいし、もっと成長したいと願っています。しかし同時に私たちは信仰の成長において非常に遅い存在だということにも気づいています。一体いつになったら成長するのだろうと。
・ そのように生きるための助けについて……ユダ24
ユダ24を見てください。「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、」とあります。「あなたがたを、つまずかないように守ることができ」るのは一体だれです?あなたがたを「傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる」お方は一体だれです?それは神です。みことばはそう教えています。我々は受け身なのです。そして先ほど見たピリピ2章にもう一度戻ってみてください。我々は神様のご計画を見たのです。神はこの邪悪な罪の世界にあって、我々が「いのちのことばをしっかり握って、……世の光として輝」いて行くと。
先ほど千年王国で異邦人たちがユダヤ人に救いを求めて行ったのは、彼らにある救いのすばらしさ、その祝福を見たゆえに、人々はこの神に心ひかれたのです。まさにそれが神がイスラエルを選んだ目的でした。神はあなたを通して同じことをなそうとしておられる。神はあなたを通して神のすばらしさを示そうとされている。
さて、ピリピ2:13を見てください。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」とあります。では「あなたがたのうちに働いて志を立てさせ」、つまりあなたがたの意思に働くのは「神」なのです。この箇所がまず最初に教えているのは、神様は信仰者であるあなたのうちに働いて、神様のみこころに従って行きたい、神が喜ばれることを行なって行きたいという思いをあなたに与えてくださる。それが神がなされるわざだと言っているのです。
次に、それを実践するために、「事を行なわせてくださる」のは、「神」だと書いてあります。それが信仰生活の鍵だということです。僕らは自分の力に頼っていません?自分の力で神様が喜ばれるような人になろうとしたって、残念ながらならないのです。もちろん神がその願いを下さるから私たちはそのように生きて行きたいという願うのです。14節には「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。」とあります。主が示してくださるみこころに従って行く決心をして、神よ、私を助けてください、助けをいただきながら、それを実践して行くのです。そうすることによってあなたが非難されるところのない者になり、この暗闇の世にあって、光として輝けると。
みことばは私たちにちゃんと神のみこころを教えてくれるすごいものです。どう生きるべきかを教えてくれるのです。真理を教えてくれるのです。この「十四万四千人」の証人たち、伝道師たちはこんなふうに生きていたのです。そして、神は彼らを大いに用いられた。彼らは神の栄光を現わし続けたのです。我々もしっかりとこの生き方を見て、それに学ぶことです。彼らがどのような歩みをしていたのか、そのことをしっかりと心に刻むことです。あなたはきよい存在でしょうか?あなたは主に服従しておられるでしょうか?あなたは常に真実を語り続けておられるでしょうか?そしてあなたは霊的な者として成長しておられるでしょうか?そういう人になることを神はあなたに求めておられる。そして、間違いなくここにおられる信仰者の心には神が働いておられる。そのような人に変えてくださいと。どうぞそれを可能にしてくださる神様に助けを求めて、そのように歩んでください。神はあなたを変えて行ってくださる。神はあなたを用いてくださるのです。このみことばをしっかりと実践することです。神はそれを助けてくださる。
《考えましょう》
1.「小羊とともにいた十四万四千人の額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった」とありますが、この意味を説明してください。また彼らの働きは何でしょうか?
2.「新しい歌」を歌っている様子が記されていますが、それはどのような歌なのかを説明してください。
3.「十四万四千人」の特徴が記されていましたが、それらを説明してください。
4.この主に喜ばれていた「十四万四千人」からあなたが教えられたことを信仰の友と分かち合ってその実践に励んでください。
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