Messenger: 近藤修司
Passage: ルカ10:27
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ルカの福音書10章をお開きください。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」(ルカ10:25)、これが律法の専門家がイエス・キリストにした質問でした。
最も大切な質問です。どうしたら罪が赦されるのですか?どうしたら救いに与ることができるのですか?どうしたら天国に入ることが赦されるのですか?私たち人間にとって最も大切な質問、この質問に対してイエス・キリストはお答えを与えられるのです。もちろん、イエス・キリストはすでに見て来たように、この専門家のことばを用いてその答えを与えました。それは「神を愛することであり、隣人を愛することである。」と。そのことについてイエス・キリストは律法の教えを用いて、私たちに詳しく教えてくれました。「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、」、つまり、心のすべてをもって、思いのすべてをもって、知性のすべてをもって、力のすべてをもって神を愛せよと言うのです。前回、私たちが見たことですが、神が望んでおられる神を愛する人とは次のような信仰者でした。
その人は自らの考えることも、思い、想像することも、そして、しようとすることも、また、実際に行なうことも、そのすべてが神に喜ばれ続けている人であると。私たちが考えることも思い想像することも、私たちがしようとすることも実際に行なっていることも、そのすべてが神に喜ばれている人です。自らの心が常に神への愛によって満たされるだけでなく、それがすべての行動の動機であり原動力である人。また、この人はこの世の何よりも主を愛する人、また、自分自身よりも主を愛する人です。自分のことよりも常に神に喜ばれることだけを考え、常に神に喜ばれることだけを行なっている人、そういう人だけが永遠のいのちをいただくことができると言うのです。
確かに、ここまで学んだときに私たちみなはある共通した思いを持ちます。それは、私たちは到底、神が要求しているこのような愛をもって神を愛することなどできないということです。だから、私たちが見て来たように、救い主が備えられ、救い主があなたに変わって救いを成し遂げてくださったのです。もし、このように神が命じられたことを私たちが自分の努力で実践することができるなら、救い主の必要性はありませんでした。この神の命令に完璧に従われたのはイエス・キリスト以外にだれもいません。
だから、私たちはみな救いが必要なのです。ですから、「どうしたら救われる」のかという神の基準は私たちに、いかに私たちが神の前に罪深い存在であるか、そして、私たちがどんなに努力をしても心を入れ替えても、神の基準に到達することはない、救いに関して私たちは全く絶望的な存在であるということを明らかにするのです。私たちがどんなに頑張っても、神の要求しておられるこの完璧な正しい人間になることはできません。パウロはそのことを私たちに教えてくれました。ローマ人への手紙の中で繰り返して教えているのは、私たちがいかに神の基準から外れているか、いかに罪深いか、いかに私たちには神のあわれみが必要であるかということです。ですから、このように神の基準を見てそれを覚えるときに、あなたがいかにそこから外れている者かということに私たちは気付かなければいけません。あなたはもうそのことに気付いておられると確信します。ですから、私たちは感謝して備えられた救いをいただき、そして、その神を私たちは受け入れて愛して従って行こうとするのです。
でも皆さん、この示された基準というのは、イエスを信じたあなたにとって目指さなくてはならない目標なのです。ここに示されたことは神のみこころなのです。神が私たちに何を望んでおられるかです。
神はあなたがあなたのすべてをもって神を愛することを望んでおられる。でも、それを果たすことができたら救われるのではありません。だれもできません。行ないによって救いを得ることはないのです。でも、神の恵みによって救われた私たちは、その神が望んでおられる目標を目指して歩んで行くのです。
ですから、どのように生きて行くことがみこころなのか明らかです。神を愛する者として生まれ変わったあなたが神を愛する者として成長して行くことです。
前回はローマ人への手紙8章28節で終わりました。そこにはこのように記されていました。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」、つまり、パウロはここでも救われた人の特徴を明らかに示しました。救われた人々、罪赦された人々とはどういう人か?自分自身が救われたと思い込むことではなく、神が働いて神が救ってくださったなら、その人にはこのような特徴が出て来ると言います。それは、神を愛するという特徴です。神を愛する者へと生まれ変わったのです。そして、この救いは神の一方的なご計画によるのです。ですから、生まれ変わった私たち、神を愛する者へと生まれ変わった私たちが、
その神への愛において成長して行くこと、それが私たちのこの地上における信仰生活です。感謝なことに、私たちにできないことを神は成してくださいました。神を完全に愛することができない私たちを助けて、私たちが失敗を繰り返しながらでも神を愛する者として成長して行くように、神は私たちを助けてくださるのです。そのために皆さん、「神を愛する」ということばを使っても、神を愛することが具体的にどのような生き方なのか、そのことが分からなければ自分の生活が本当に神の前に正しいのかどうかの吟味もできません。「具体的にこのように生きて行くのです。」ということを知るなら、私たちは自分がそのように生きているのかどうか、その物差しによって自分を測ることができます。
ですから、今日私たちは、この「神を愛すること」に関して八つのことを見て行きます。
☆神を愛することの具体例
1.神の命令を守る = みこころを守りみこころに従う
皆さんがよくご存じのヨハネの福音書14:15には「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」とあります。21節にも「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。」とあり、23節には「…だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。」
とあります。これ以上言う必要はありません。神を愛するということは、神が言われたことを守り行なって行くことです。神が言われたこと、神のみこころに私たちが従順に従って行くこと、それが神を愛するということだと言うのです。レビ人たちがいます。レビ族は特別に神によって任務が与えられました。彼らが神から特別の祝福をいただいたその理由が聖書の中に記されています。
例1.レビ人への祝福
なぜ、彼らは特別に祝されたのでしょう?申命記33章には、死が間近に迫っていたモーセがイスラエルの人々を祝福する記事があります。その中の8節からレビについて語られている箇所を見てください。33:8-11「:8レビについて言った。「あなたのトンミムとウリムとを、あなたの聖徒のものとしてください。あなたはマサで、彼を試み、メリバの水のほとりで、彼と争われました。」、驚くべきことは、このレビについて「あなたの聖徒のものとしてください。」と彼らのことをモーセは「聖徒」と呼ぶのです。
実は、ここで使われている「聖徒」ということばは、神のおきて、神の意志に従順な者を指しているのです。「神を敬う者」という意味があり「敬虔な者」ということです。モーセはレビ人をこのように呼ぶのです。また、ここに「トンミムとウリム」と記されています。人々がどのように使ったのかよく分かっていないのですが、これは大祭司が装束を着て胸当てをするときにそこに入れたものです。これを持つ者は敬虔な人、神が好意をもっている人であると呼ばれていると言われます。ですから、モーセがレビに対して最初に言ったことは、神から好意をいただいている敬虔な人たち、神に従う従順な者たちであるということです。そして、その理由がその後に記されています。9節「彼は、自分の父と母とについて、『私は、彼らを顧みない。』と言いました。また彼は自分の兄弟をも認めず、その子どもをさえ無視し、ただ、あなたの仰せに従ってあなたの契約を守りました。」、モーセはここでレビ人たちが行なったある行為を上げているのです。それは、モーセがシナイ山に上ったとき、モーセがなかなか降りて来ないので人々は「どうしたのだろう?どうしてこんなに時間がかかるのだろう?」と言って、彼らはアロンにエジプトから私たちを連れ上ってきた神を造ってくれと言い金の子牛を造った、その時のことです。出エジプト記32章に出て来ます。モーセは神の字が記されている二枚の板を持って山から下りて来ました。そこで人々の様子を見たモーセはアロンに言います。「いったい何が起こったのか?」と。
24節にはアロンの非常に見苦しい言い訳があります。「それで、私は彼らに、『だれでも、金を持っている者は私のために、それを取りはずせ。』と言いました。彼らはそれを私に渡したので、私がこれを火に投げ入れたところ、この子牛が出て来たのです。」、みなが金をはずして自分のところに持って来たので、その金を火の中に投げ込んだところこの子牛が出て来たと言うのです。そんなことは有り得ません。でも、アロンはそのようにモーセに言い訳をするのです。モーセはこのように言います。26-29節「:26 そこでモーセは宿営の入口に立って「だれでも、主につく者は、私のところに。」と言った。するとレビ族がみな、彼のところに集まった。」、だれが私につくのか、だれが私に従うのか、だれが神のことばに従うのか、すると、レビ族が集まりました。「:27 そこで、モーセは彼らに言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入口から入口へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ。」、神はレビ族にこのような命令を与えるのです。「:28 レビ族は、モーセのことばどおりに行なった。その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れた。」、このみことばを見て、神は愛のない方だと思わないでください。罪人である私たちに神は常に恵みを与えてくださっています。しかし、私たちはこのような記事を見ると、私たちの神は愛にあふれた神であると同時に、罪を憎まれる神であることが分かり
ます。神はどのような罪でも憎まれるのです。29節を見ると、「:29 そこで、モーセは言った。「あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らっても、きょう、主に身をささげよ。主が、きょう、あなたがたに祝
福をお与えになるために。」とあります。
そこで、申命記33章に戻って、9節で言われていることはこの出来事なのです。レビ族は何をしたのか?「神の仰せに従ってその契約を守った」のです。だから、彼らは祝されたのです。そこには当然自分の知人もいたでしょう、友人もいたかも知れない、幼友だちもいたかも知れません。しかし彼らは、神が命じたことを自分がどう感じるかとか、どう思うかではなくて、神が命じたことに従って行こうとしたのです。神はその信仰をお喜びになり、その信仰を祝されたのです。ですから、彼らの忠実さが称賛されているのです。そして、彼らには大切な務めが与えられて行きます。10節「彼らは、あなたの定めをヤコブに教え、あなたのみおしえをイスラエルに教えます。」、教師としての役割です。大切な神の教えを伝えて行くという務めが彼らに与えられるのです。彼らは誠実に、主を覚えて主に従って生きて行ったゆえに、神は彼らを民の指導者とし、神の教え、教訓を教える教師として立てられて行くのです。10節の後半から「彼らはあなたの御前で、かおりの良い香をたき、全焼のささげ物を、あなたの祭壇にささげます。:11 主よ。彼の資産を祝福し、その手のわざに恵みを施してください。彼の敵の腰を打ち、彼を憎む者たちが、二度と立てないようにしてください。」、レビ族に礼拝を導いて行くという祝福を与え、しかも、
すべての敵に対して勝利するという約束までも与えられました。レビ人がどうして祝されたのか?彼
らが神の命令に従ったから、神のみこころに従ったからです。そのような人は聖書の中にたくさん記さ
れていますが、その中の最たる人物は当然私たちの主イエス・キリストです。主イエス・キリストはすべての点において神のみこころに従って行かれました。
例2.主イエスへの祝福
ちょうど12歳のときにイエス・キリストは宮に行って、そこで「教師たちの真中にすわって、話を聞いたり質問したりしておられ…」(ルカ2:46)、人々は彼の教えを聞いて驚きます。その後、ルカの福音書2:52には「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。」と記され
ています。なぜ、イエス・キリストは父なる神に愛されたのでしょう?主イエス・キリストは父なる神のみこころに従ったからです。従順に従ったから、すべての点で完璧に従われたからです。ですから、
この主イエス・キリストはヨハネ14:31に「しかしそのことは、わたしが父を愛しており、父の命じられたとおりに行なっていることを世が知るためです。」とある通りです。彼の生き方は、父なる神をどれ程
愛しているかということの証だったのです。また、ヨハネ8:29にも「わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行なうからです。」とあります。皆さん、神の祝福をいただくか災いを自分の身に招くかはすべてここにかかっているのです。神に対して従順かどうかです。
もう一箇所、申命記6章に従順に歩む者たちに対するすばらしい約束が記されています。6:2-3「それは、あなたの一生の間、あなたも、そしてあなたの子も孫も、あなたの神、主を恐れて、私の命じるすべての主のおきてと命令を守るため、またあなたが長く生きることのできるためである。:3 イスラエルよ。聞いて、守り行ないなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、あなたの父祖の神、主があなたに告げられたように、あなたは乳と蜜の流れる国で大いにふえよう。」、祝福のことです。どうすればこの祝福をいただくことができるのでしょう?主のおきてと命令のすべてを守ることです。同じ申命記28:58-60には不従順に対する約束が記されています。「もし、あなたが、この光栄ある恐るべき御名、あなたの神、主を恐れて、この書物に書かれてあるこのみおしえのすべてのことばを守り行なわないなら、:59 主は、あなたへの災害、あなたの子孫への災害を下される。大きな長く続く災害、長く続く悪性の病気である。:60 主は、あなたが恐れたエジプトのあらゆる病気をあなたにもたらされる。それはあなたにまといつこう。」、つまり皆さん、詳しい説明は必要ないのです。というのは、神の祝福が約束されているのです。私たちがその祝福をいただく
ために必要なことは、神のみこころに従って行くことです。私たちがそれを無視して歩んで行くならば、私たちはその祝福を逃してしまうのです。
J・I・パッカーはこのように言います。「戒めを守ることは御父と御子とを愛するただ一つの真の道なのです。」と。もし、あなたが「私は主を愛しています。」と言われるなら考えなければいけません。私は神のみことばに、神のみおしえに忠実に従っているかどうかと。ソロモンは伝道者の書12章でこのように言いました。13-14節「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。:14 神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」、はっきりしています。それだけだと言うのです。あなたがこの地
上の歩みを為して行くときに必要なことは、神のみことばに従い続けて行くことです。当然、私たちの
中で完璧にこのみおしえに従い続けている人はいません。だから、罪を犯せば、失敗を犯せば、私たちはそれを神の前に告白して神に従い続けて行くのです。失敗したらまた告白して従い続けて行くのです。
そのようにして私たちは主に喜ばれる歩みを為して行こうとするのです。
スポルジョンはこのように言っています。「もしあなたが十字架の兵士であり、小羊に従う者であれば、神があなたに命じられることを為すべきです。あなたは理由を尋ねてはなりません。あなたの為すべきことは、必要ならば、死を賭してでも(つまり、失うことを覚悟して自分のいのちをも捧げて生きて行くことですが)聖く柔軟に真理を保ち続けることです。真に主の側にいる者は一人残らず神のみこころに絶対に服従する義務があることを感じていなければなりません。私は、主の側にある者、また、それを公言しているすべての者が、どんな犠牲を払ってもあらゆることにおいて主のみことばに従うことを望むのである。」と。時代がどうであれ、どこの国であれ、神を愛する者たちはそのように信じ、そのように生き、そのように教えて来たのです。「神のおことばに従い続けて行きなさい。神のみことばが教えるように生きて行きなさい。神はそこに助けを与え、そして、そこにのみ神の祝福がある。」と。神を愛するということは、神のみおしえに、神のみこころに従って行くことです。
2.熱心に仕えること、奉仕すること
Ⅰテサロニケ1:3にはテサロニケのクリスチャンたちへの称賛が記されています。「絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。」、ここに「愛の労苦」と記されています。「労苦」とは大変な苦しみのことです。彼らは神を愛するゆえに、喜んで従い続け、喜んで仕え続けていったのです。彼らの信仰者としてのその大変な歩みは、神を愛するというその動機に基づいたものでした。信仰者の皆さん、あなたは神を愛するゆえに一生懸命主に仕えておられ、いろいろな働きをしておられますが、それで満足していませんか?どこか
で「もうこれだけしているから十分だ。」と思っていませんか?主が為してくださったみわざは完璧です。何も付け足すものはありません。しかし、私たちが主に対して為すわざに対してはまだまだ再考の余地があります。なぜなら、私たちが為すことは不完全だからです。私たちはもっと主のために為すことができるはずです。私たちは出て行ってこの福音を伝えることがもっとできるはずです。主の御栄のために私たちのすべてを用いてもっと仕えることが出来るはずです。与えられている賜物を用いてもっと主に仕えることが出来るはずです。私たちは主の前に熱心に仕え続けているのかどうか、そのような行為、それも神を愛することです。
3.罪を憎む
主を愛することは主が愛されることを愛するわけです。裏返せば、主が憎まれることを憎むことです。私たちは主が憎まれる罪を徹底的に憎むことが必要です。罪に対して好感を持ったり罪に対して無関心であってはならないのです。Ⅰテサロニケ5:22でパウロが言う通りです。「悪はどんな悪でも避けなさい。」、これ位のことなら構わないとしてはならないと言うのです。パウロはエペソ人への手紙5:3-5で、私たち信仰者が未信者と同じような生き方をしてはならないと言います。「あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。:4 また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。:5 あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者――これが偶像礼拝者です。――こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。」、どうですか?皆
さんの周りのイエスを知らない人たちが皆さんを見て「あの人クリスチャンだったの?知らなかったわ。」ともし言われたら悲しいではないですか?私たちは例え摩擦が起ころうとも、神の前に間違って
いることは間違っているとして罪を憎んで行くことが必要なのです。
その「罪」について考えるとき、私たちはよく「言動」と言います。「行ない」と「ことば」の両方が含まれることは明らかです。パウロは今私たちに話したように、私たちの行ないは罪の中を歩んでいる未信者と同じようであってはならないと言います。同時に、行ないだけでなく、私たちはことばにおいても罪を犯してしまう者です。ことばにおける罪も私たちは憎まなければいけません。悪口を言ったり噂を広めたりとことばによる罪です。ヤコブは私たちにこのことに関して詳しく教えています。
例:ヤコブ書3:2-12「ことばで失敗しない人」のこと
1)定義
2節「私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」、ことばで失敗をしない人は舌を制御できる人です。こ
こで言われている「完全な人」とは、欠点や誤りがない完璧な人のことではありません。そんな人はどこにもいないからです。ここで言われている「完全な人」とは霊的に成長している人のことです。神が喜ばれるようなことを行ない、教え、口にしている人です。私たちは救われた者としてその信仰において成長したいと願い、成長するために日々神とともに歩んでいます。ヤコブはそのことを言っているのです。
2)舌の働き 3-6節
3-6節に舌の働きが記されています。この舌がどのような働きを為すのか?ヤコブは四つのことを教えています。自分のからだ全体に影響を与える、自分のからだ全体を汚す、周りの人々に悪い影響を及ぼす、サタンの道具として使われることもあると。
(1)からだ全体に影響を与える 3-5節
3-5節を見ると、ヤコブはここでからだ全体に影響を及ぼすと言って二つの例を挙げています。
(a)二つの例 3-4節
「:3 馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。:4 また、船を見なさい。あのように大きな物が、強い風に押されているときでも、ごく小さなかじによって、かじを取る人の思いどおりの所へ持って行かれるのです。」
・馬のくつわ=くつわによって大きな馬全体を操ることができます。
・船の舵=どんなに大きな船でも舵をもってその方向を自分の思うままにコントロールすることができます。
この二つの例を用いてヤコブが言いたいことは、実は、からだの中で舌は非常に小さな器官ではあるけれど、この小さな器官があなたのからだ全体に影響を及ぼすということです。
(b)例の適用 5節
5節に「同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。」とあります。「大きなことを言って誇る」、つまり、この小さな器官
である舌に大変大きな力があるということです。ちょうど、「くつわ」、「舵」と同じように、非常に大きな力、大きな影響力をもっているということです。
私たちの口から悪いことばが出て来るとからだ全体がその影響を受けます。例えば、私たちが人を中
傷したり人の悪口を言ったりしているとき、言っているときはそれが自分の感情から出ているものだから、ある種の満足を感じているかも知れません。しかし、段々自分が虚しくなって来ます。悪口を言っているときに「神さま、感謝します。あなたが私を救ってくださったから…」とそんなことを言う人はだれもいません。そのような思いは私たちのうちから完全に消えてしまいます。つまり、私たちのことば、この小さな舌から出て来るわずかなことばであっても、からだ全体に影響を与えて間違った悪い思いを抱かせるのです。逆に、私たちが神に賛美をしているときには私たちの心の中は喜びに溢れています。人を励ますことばを言っているときは私たちの心は喜びに溢れています。つまり、ヤコブが私たちに言うことは、確かに、小さな器官ではあるけれど、この舌を制御しなければそれはあなたのからだ全体に影響を及ぼすということです。そして、これは私たちがもう経験しています。ことばで失敗する人はそれを容認しないでください。パウロが教えたように、私たちは悪はどんな悪でも憎むことです。このような罪から私たちは離れようとするのです。そして、この舌はからだ全体に影響を与えるだけではない、からだ全体を汚してしまうと言います。
(2)からだ全体を汚す 6節
先程話したように、私たちが悪いことばを口から出すとき、確実に、自分の心から去ってしまうものに気が付きます。それは喜びです。6節「舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。」
(a)不義の世界:ソロモンはこのように言っています。箴言15:1,2,28「:1 柔らかな答えは憤りを静める。しかし激しいことばは怒りを引き起こす。」「:2 知恵のある者の舌は知識をよく用い、愚かな者の口は愚かさを吐き出す。」「:28 正しい者の心は、どう答えるかを思い巡らす。悪者の口は悪を吐き出す。」、
舌がこのような汚れた悪い影響を私たちにもたらしてしまうのです。そのような罪を犯しているときに私たちには喜びが自分の中から無くなるだけでなく、その悪は自分だけに留まらないで周り広まって行きます。それが怖いのです。
(b)からだ全体を汚す:6節に「人生の車輪を焼き、」とあります。人生を車輪と見ているのです。誕生から死まで継続して回り続けて行くからです。ここでヤコブは舌を車輪の車軸と見なして、そこに火が着くならそこからスポークを通して全体に火が広がって行くということです。つまり、私たちの心がこのような罪の内にあるなら、私たちの口から悪いことばが出て来てそのことばが自分を汚すのです。だから、私たちは気をつけていなければいけません。私たちが何を口にするのかです。分かっていることは、私たちの口から出て来ることばは私たちの心にあるものです。マタイ15:11、18-19を見てください。「:11 口にはいる物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。」「:18 しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。:19 悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。」。
(3)周りに悪い影響を与える
悪いことばはその人自身を汚すだけでなく、周りの人々にも影響を及ぼします。悪いことばを出す人たちの側にいると私たちのたましいが言います。「ここに居たくない。このようなことは聞いておきたくない。」と。ですから、私たちは自分の舌に注意をしておかなければ、その舌からいろいろな罪が出て来ます。人に対する中傷、ゴシップ、誹謗、陰口、嘘、下品なことばなど、このようなことを口にしてはならないと言うのです。もし、あなたがそのことを許すなら、あなた自身がそのようなものに影響され、そして、あなたの周りの者たちまでも悪い影響を受けて行くからです。箴言16:28には「ねじれ者は争いを巻き起こし、陰口をたたく者は親しい友を離れさせる。」とあり、20:20-21にも「たきぎがなければ火が消えるように、陰口をたたく者がなければ争いはやむ。:21 おき火に炭を、火にたきぎをくべるように、争い好きな人は争いをかき立てる。」、そのようなことは「止めなさい」と言うのです。あなた
の口から人に対する悪口が出て来てはならないと言うのです。
(4)サタンの道具として使われる
次を見てください。6節に「そしてゲヘナの火によって焼かれます。」とあります。「ゲへナ」とは地獄を表わします。このような舌の罪は永遠のさばきにふさわしいと言っているのではありません。ここで
ヤコブが言わんとしたことは、気をつけなければ、ゲへナにふさわしいサタンや悪霊たちがあなたを用いることがあるということです。ここでヤコブが警告したことは、サタンたちがしようとしていることはそのようなことだということです。彼らは日夜、信仰者たちを神の前で訴えているのです。そのサタンの道具としてあなたが用いられてしまう危険性があるから、あなたは自らのことばをしっかりと支配しなければいけないと言うのです。
確かに、耳の痛いことです。でも、避けて通れないことです。私たちが神によって救われたことは神の栄光を現わすためです。神のすばらしさを現わすためです。あなたの口から出るどんな悪いことばも神の栄光を現わしません。神の栄光を汚すものです。神があなたのことばを聞いてそれを喜ばれるのか、それとも耳を覆われるのか?先程から見て来ているように、神の祝福をいただくかどうかということは私たちに問題があるのです。例えば、子どもたちに「シャツを着ないで寝たら風邪を引くよ。」と言っ
ているのに風邪を引いたら「ほら、見てごらん」と言います。親はちゃんと警告しているのです。信仰の歩みにおいても神は「このように生きなさい」と言われます。私たちがそれに逆らうなら、もちろん、そこに神の祝福がないことは明らかです。私たちは悪から離れなければいけないのです。
私たちは神の恵みによって救われた者として、祝福を受け継ぐ者として今を生きているのです。あなたの存在はこの神によって祝された者として、その祝福を人々に分かち合うためにいるのです。その私たちがサタンに使われてどうしますか?「気をつけなさい」と言うのです。
4.再臨を待望する
神を愛する者として再臨を待望します。愛する人から「あなたの家に行きます。いついつあなたの家を訪問しますよ。」と言われたら皆さんはその日を心待ちにします。Ⅱテモテ4:8「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」、主イエス・キリストはあなたや私を迎えに来てくださるのです。その日を私たちは待望します。なぜなら、私たちは主イエス・キリストを愛するからです。Ⅰコリント16:22「主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。主よ、来てください。」
5.犠牲をいとわない
何事も喜んで犠牲的にささげて行きます。Ⅱコリント8:1-8「さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。:2 苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。:3 私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、:4 聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。:5 そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。:6 それで私たちは、テトスがすでにこの恵みのわざをあなたがたの間で始めていたのですから、それを完了させるよう彼に勧めたのです。:7 あなたがたは、すべてのことに、すなわち、信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、私たちから出てあなたがたの間にある愛にも富んでいるように、この恵みのわざにも富むようになってください。:8 こうは言っても、私は命令するのではありません。ただ、他の人々の熱心さをもって、あなたがた自身の愛の真実を確かめたいのです。」、同じ9:6-11「私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。:7 ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。:8 神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。:9 「この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる。」と書いてあるとおりで
す。:10 蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。:11 あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。」、クリスチャンたちは貧しかったけれど
も、その心の中にある喜びが犠牲的にささげようとしたのです。あり余った物をささげるのではありません。犠牲的にささげるということは神を愛する行為なのです。
6.迫害を喜んで受け入れる
愛するキリストに従う私たちにはいろいろな迫害、いろいろな問題が出て来ます。しかし、私たちはそれを避けようとしません。それは必ず起こるとイエスは言われました。だから、私たちは喜んでそれに従って行こうとします。パウロ自身、主を愛して主に従う者として、その結果、いのちを落とすことがあっても大丈夫として、彼自身はどんな迫害があっても、その中で信仰を妥協することなく忠実に歩み続けて行こうとしました。それは神を愛していたからです。使徒21:13「するとパウロは、「あなたがたは、泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています。」と答えた。」
7.信頼を失わない
主を愛している者たちは、その方に対する信頼を失いません。どんな時にもこの方を信頼するのです。主イエス・キリストは私たちを愛してご自分のいのちを捨ててくださった。その愛を知った私たちはその方を疑うことなく、その方を信頼して歩んで行こうとします。その間には愛の関係があるからです。愛するから信頼するのです。アブラハムの例を見てください。ローマ4:19-22「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。:20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、:21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。:22 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。」
8.すべての人を愛する = 正しい人間関係を保つ
このことは次回見ますが、なぜ、律法は「神を愛すること」、そして「隣人を愛すること」と教えたのかです。この二つは切り離すことができません。正しい人間関係、教会においてもそうです、社会においてもそうです。私たちは教会の中においてお互いの間に正しい関係を保ち続けることです。兄弟を愛し続けること、赦し続けて行くことです。ローマ12:18には「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」とあります。同じ13:8にも「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。」あり、互いに愛し合うことは神に喜ばれることです。そして、互いに愛し合うこと、それはあなたが神を愛しているからです。
皆さん、残念ながら、私たちクリスチャンの集まりは、私たちが不完全であるゆえに、そこには罪のない完全な交わりというものは存在していません。しかし、私たちは神が何を望んでおられるのかを聞きました。神が私たちに何を望んでおられるのか?神を愛する者として成長して行くことです。そして、
神を愛する者は、見て来たように、少なくともこのような歩みをする人たちです。私たちが決めなければいけないことは、そのような歩みを今日から始めて行くかどうかです。あなたの選択が重要です。神の祝福をいただく選択もできるし、逃す選択もできます。しかし、私たちが見て来たことは、神が何を望んでおられるかです。
適用:
「神を愛している」と口で言うことは容易です。しかし問題は、神がどのように思われているかです。神は「あなたの愛」を喜んでおられると思いますか?
信仰者の皆さん、そのように生きて私たちの神に喜んでいただいてこの地上の人生を終えることができるなら、どんなに幸いでしょう。それにはいろいろなことがあります。しかし、私たちがしっかりと覚えなければいけないことは、この神の前に私はどのような生き方を選択をして生きて行くかということです。神が喜んでくださるその生き方こそ、神に対する感謝の生き方だと思いませんか?なぜなら、
私たちが十字架を見た時に、主イエス・キリストが私たちのために何を為してくださったのかを見たときに、私たちのうちにこのような思いが出て来ます。「いったい、何をもってこの方に私の感謝を現わそう、何をもって私の愛を現わして行こう!」と。それは一つです。主のみ教えに従うことです。主の命令に従いなさい。それが神が望んでおられることです。そして、そのように生きる者たち、それが神を心から愛する者たちです。そんな信仰者に変えられて行くこと、そのことを心から願います。そして、
ここにいらっしゃる皆さんが、そのことを神の前に今決心して、主の助けをいただきながら、新しい歩みをしてくださることを期待します。そのようにして私たちは神の栄光を現わして行きましょう!
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