Messenger: 近藤修司
Passage: ルカ10:25-27
Listen: メッセージを聴く
Read: メッセージを読む
今日はルカの福音書を通してみことばを学んで行きます。というのは、昨日今日のことではありませんが、神のすばらしい恵みを考えるときにどうしてもこの大切な救いをしっかりと知らなければいけないからです。私たちは今、ローマ人への手紙を学んでいますが、今日はルカの福音書からこの箇所をごいっしょに見て行きたいと思います。ルカの福音書10章25節を見てください。「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」、一人の律法の専門家がイエスにこのような質問をしました。確かに、彼のこの質問の動機は、みことばの通りに「イエスをためそうとして」、つまり、イエスをテストしようとしたのです。なぜなら、彼は律法の専門家だったからです。彼の動機は正しくないことは確かですが、彼がした質問はとても大切な質問です。私たち一人ひとりはこの質問に対するイエスの答えをしっかりと覚えなければいけません。なぜなら、自分自身の永遠に関わることだからです。どのようにすれば永遠のいのちを手に入れることができるのか?どのようにすれば罪の赦しをいただいて天国に行くことができるのか?彼は最も大切な質問をイエス・キリストにしたのです。
なぜ今日この箇所をごいっしょに学ぼうとしているのかというと、何度もこのような記事に出会うからです。アメリカのある著名な牧師がこのように言っています。「自分の牧会している教会の(どれ位の規模の教会か分かりませんが、多分大きな教会でしょう)少なくとも半分はクリスチャンではない。」と。自分の教会の半数は救われていないと言うのです。ショッキングなことだと思いませんか? 私やまたこの教会のリーダーにとって一番関心があることは、神が託してくださったこの教会の群れ、皆さんのことです。一番関心があるのは、皆さんが間違いなく天国で永遠を過ごされることです。罪の赦しが間違いなく与えられていることです。この教会の半分の人たちが救われていると思っていたけれど、実は、救われていなかったと、そのようなことがあってはならないし、また、もしそのようであれば悲しくて仕方がないことです。では、そのようにならないためにどうすればいいのか?私たちにできること、牧会者にできることは、神がおっしゃっていることをそのまま分かり易く明確に語り続けることです。この「どうすれば救われるのか?」という大切な質問に対して、聖書が何を言っているのか、神が何と言われているのか、そのことを皆さんに明確に語ること、それが私たちの責任です。そして、ここにおられる愛するお一人ひとりが、その神のメッセージを心から喜んで受けてくださって、この救いをご自分のものとしてくださること、それが私たちの願いです。
多くのクリスチャンたちにとって何度も何度も聞いたメッセージでしょう。しかし、大切なことは皆さん、もう一度あなたの信仰を吟味することです。間違いがないかどうか。「どうすれば永遠のいのちを得ることができるのか?」、この質問に対してイエス・キリストは答えておられます。もちろん、イエス・キリストは逆にこの律法の専門家に質問することによって、答えを引き出している訳ですが、その答えはこうです。26-27節をご覧ください。「:26 イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」と彼の質問に対して逆にこのような質問を投げかけるのです。「:27 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」、答えは明確です。「神を愛することと、隣人を愛すること」、これだと言うのです。しかも、イエスはこのように言われました。28節「イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」、イエスは、どうすれば私たちは罪赦されて永遠のいのちを得ることができるのか、どうすれば天国に行くことができるのかを教えておられます。神を愛し、隣人を愛しなさい、それを実行するならあなたは救われますと言われました。
イエスがここで律法の専門家にこのような質問をなさったのですが、この質問を見ると「律法には、何と書いてありますか。」と言われました。なぜ、このような質問をされたのでしょう?それはイエス・キリストの語っておられる救いのメッセージは、新しい教理ではなかったからです。イエス・キリストが語っておられる救いのメッセージは、実は、律法の教えに反するものではなかったのです。だから、敢えて、このように専門家に「律法には、何と書いてありますか。」と尋ね、そして、その教えをその通りに実践するならあなたは救われると言ったのです。新しい教えでないことを明らかにしたのです。もちろん、イエス・キリストご自身がこの様に答えておられる箇所がマタイの福音書22章にも記されています。22:35-36「そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。:36「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」、パリサイ人と律法の専門家からの質問に関して、イエス・キリストはこの様にお答えになっています。37-40節「そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』:38 これがたいせつな第一の戒めです。:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。:40 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
実は、この二つのことは非常に関連しています。神を愛することによって、私たちは隣人を愛する者になるからです。イエスはこれが私たち人間が天国に行くカギである、永遠のいのちをいただく手段だと教えられました。そこで私たちが考えてみなければいけないことは、神を愛するとはどういうことなのかです。
☆永遠のいのちをいただく方法
A.「神を愛すること」 27節
多くの皆さんに、例えば教会に来られている皆さんに「あなたは神さまを愛しますか?」とお聞きするなら、殆どの皆さんは「はい」とおっしゃる。クリスチャンホームで育った子どもたちに「あなたは神を愛しますか?」と言うと殆どみなが「はい」と答えます。でも、問題は「神を愛する」ということに関して同じ定義に立っているかどうかです。神が言われる「神を愛する」ということと、私たちが思う「神を愛する」ということが同じでなければ、ことばは同じでも全く違うことをしている可能性があります。そこで、私たちがしたいことは、このみことばで主なる神は私たちに何を言われているのか、「神を愛する」とはどうことなのか、そのことをごいっしょに見ることです。
確かに、神を愛することに関して、「だれを愛するのか」と「どのように愛するのか」を教えています。なぜなら、私たち日本人はこのような多神教の中で生まれ育ったので、「神」という名を頻繁に使いますが、問題はこの聖書が私たちに「神を愛する」ことについて、まず、その神がどのようなお方か、そのことを知らなければいけないということです。
1.だれを愛するのか : 愛の対象
そこで27節にある命令『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』は、申命記6章5節のみことばの引用です。実は、申命記6:4-5には「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。:5 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」とあります。ここで「主」、「神」ということばが使われています。これは同じ神を指しているのですが、ことばが違うようにそれぞれの意味が違います。今日のテキストであるルカの福音書にも「神」と「主」ということばが出ています。「主」とは旧約聖書の中で最も頻繁に使われるヘブライ語で、6800回以上も使われていることば「ヤーウェー」といいます。それを日本語では「主」と訳したのです。契約の神です。約束されたことを必ず守られる神です。「あなたの神」という、この「神」はここでは「エロヒム」です。旧約聖書には2600回も出て来ることばを使っています。これは至高の権威者、また、唯一のお方、力ある神、創造主なる神という意味を持っています。
ですから、27節で「…あなたの神である主を愛せよ。」とあるのは、私たちがどのような神を愛するのか、それは約束を守られる契約の神であり、至高の権威者であり、唯一の神であり、力に溢れ、そして、すべてを創造なさった神、この唯一真の神を愛しなさいと教えるのです。最初に話したとおり、私たち日本人には「神」というといろいろな神を頭に思い浮かべるのですが、聖書が教えている神は、この天地すべてをお造りになり、あなたを造られた創造主なる真唯一の神である、この方を愛するようにと言うのです。少し付け加えると、27節に「あなたの神である主」とあります。神のことについて知るだけではダメなのです。神ご自身を知らなければならないのです。その違いが分かりますか?「~について知る」とはその人のことを聞いて、その人に関するある程度の知識を持っているのです。だから、神について知識があるのです。でも、「神を知る」とは神と個人的な関係があるのです。旧約聖書でも新約聖書でも「知る」ということばは夫婦の間の性的なその関係を示して使われます。個人的に密な関係です。ですから「神を知る」というのは神と非常に個人的な親しい交わりにあるということです。
教会の中には神について知っている人はたくさんいます。でも、それだからその人たちが救われているとは言えません。なぜなら、いろいろな学びを通して神について聞いているからその知識は持っていても、神を知っている人は少ないからです。神を知っている人が罪赦されて救いにあずかった者たちです。ここでみことばは「あなたの神である」と、創造主であり唯一真の力ある至高の権威者であるこの神をただ知るだけでない、この方を個人的に知ること、その個人的な関係の大切を教えるのです。そのことを27節で見るのですが、「だれを愛するのか」ということを教えてくれたこのみことばは、次に「どのように愛するのか」とその核心部分に入って行きます。
2.どのように愛するのか
1)自分のすべてをもって主なる神を愛しなさい
2)何ものよりも主なる神を愛しなさい
この二つのことを教えています。
1)自分のすべてをもって主なる神を愛しなさい
27節には「心」「思い」「力」「知性」ということばが並んでいます。確かに、申命記6章の引用ですが、6:5を見るとこの通りの四つは出て来ません。三つだけです。でも、三つでも四つでも言っていることは同じです。つまり、申命記のみことば、このルカの福音書、そして、マタイの福音書が私たちに教えることは、あなたのすべてのものをもって神を愛するようにということです。ここには『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして』と四つありますから、それぞれを定義します。その定義をお聞きになって、皆さんが気付かれることはすべて共通しています。つまり、人間のからだを四つに割ってそれぞれが違うパートというならそれでいいのですが、そうではありません。それぞれが見事にブレンドし合っているのです。そのことはそれぞれの定義をお聞きなるとはっきりすると思います。
・「心」:辞書には「考えたり、計画をしたり、意志などその行動をコントロールする場所」とあります。これが「心」です。からだのどこかにあるのです。私たちはそのように行動するからです。
・「思い」:これは「考え、意志、感情の座」です。感情が出て来る所です。自分の感情が出て来る場所を見たことがありますか?見えませんが私たちの内側から確実に出て来ます。また、ある辞書によると「これは人間の持つ最も重要な部分である」とも定義しています。
・「知性」:「理解、感情、願いなどの機能としての心」です。
・「力」:これは「能力、勢力、前進して行く力」です。
このように見ると、これらのことばを使ってみことばが私たちに教えることは、唯一真の神を愛することのその愛し方においては、あなたの人としてのすべてのものをもって愛するようにということです。これらの四つのことばを別のことばで言うと、私たちの意志であり、動機であり、感情であり、知性であり、力をもってということです。ここで「尽くして」という形容詞が用いられていますが、これは「すべて」という意味があります。ですから、「あなたの心のすべてをもって、あなたの思いのすべてをもって、あなたの知性のすべてをもって、あなたの力のすべてをもって愛せよ」と言っているのです。ここまで来て「どのように愛するのか?」ということで、恐らく皆さんは「なるほどこういうことか」と理解されたのではないかと思いますが、非常に難しいことです。私たちの問題は「あぁそういうことか!」で止まってしまって、それを具体的に理解していなければなかなか実践出来ないということです。
だから、少し努力してみましょう。
・「意志」について:あなたの意志のすべてをもって神を愛するとはどういうことか?神の愛があなたの計画や行動のすべてをいつも支配しているように、自分の考えていることのすべて、自分が計画することのすべて、それが全部神の愛によって支配され続けていることです。身近な例を挙げると、家族の関係を考える時に、神の愛によって自分の意志が支配されている人は、この神のすばらしい愛をどのようにみんなに伝えようか知らせようかと、そのことを考えます。それゆえに、その神の愛が自分の意志に働いて、いろいろな行動がそこから生まれて来ます。例えば、親が子どもに対して「神があなたを私の家庭に託してくれたことを本当に神に感謝する」と、このようなことはなかなか言いませんし書いたりはしませんが、まさにその通りです。神が託してくださったのですから。神の愛が私たちの意志を支配しているなら、私たちは何とか神の愛を知ってもらいたいとしてそれはいろいろな形になって出て来ます。このようにしなければならないと言っているのではありません。いろいろな形で私たちは神の愛を伝える者になるのです。与えられていることを感謝して「あなたのことを祈っているよ。」と言います。実際には、愛を示すことよりさばくことのほうが多いというのは悲しいことですが、さばくのではなくて誉めてみる。例えば、兄弟姉妹の関係に置き換えてみるなら、どのように人々を励まして行くのかを考えて行動すること、新しい皆さんにどのようにしてこの神の愛を伝えて行くのか、それを考えながら行動に移って行くのです。意志が神の愛によって支配され続けるのです。
・「感情」について:神の愛がすべての行動を生み出して行く、そういう人です。神への愛が常に私たちを押し出して行く、例えば、もっと主のためにできることはないか?もっと神のために何か出来ないか?と、実際に、感情が神への愛で私たちを支配しているなら、それがいろいろな行動を生み出して行くのです。
・「知性」について:神が喜ばれることだけを常に考えるのです。
・「力」について:神に喜ばれる者として前に進んで行こう、立ち止まるのではなくて、もっともっと主に喜ばれる者として変えられて行きたい、もっと主に喜ばれることを行なって行きたいと願います。
神への感謝に心が常に溢れて、神に喜ばれることだけを常に実践して行こうとするのです。皆さん、あなたのすべてをもってあなたの神を愛せよというので、その様に神を実際に愛している人は、すべてのことを通して神に喜んでいただいている人です。だから、自分の意志も感情も知性も力もすべてこの愛によって支配されているから、為すことすべてが神に喜ばれる人なのです。私たちの考えていることのすべてをご存じである神が、いつも喜んでくださっているのです。全く私たちの行動においても考えにおいても、感情においてもすべての点で神の前に喜ばれることしかなく、神の目に悲しまれることは何一つないという、そのような愛し方です。そのような愛をもって愛している人などいるでしょうか?
イエスが「どうしたら永遠のいのちを得ることができるか?」という質問に対してお答えになったことは、「あなたのすべてをもって神を愛しなさい。」でした。そのことをするならあなたは永遠のいのちを得ることができると言われました。すべてをもって神を愛するというのは私たちのすべてです。私たちの一部ではありません。1週間の中のただ1回ではありません。1年の中の1回ではないのです。私たちのすべて、365日、24時間すべての時間、私たちの為すこと、考えることのすべてが神の前に喜ばれるものであること、それが神を愛する人だと言うのです。そのようにできている人はいるでしょうか?イエスは私たちにそのことに気付かせたのです。つまり、この律法の専門家に悟らせたかったことは「私は到底あなたが望んでおられるように、私のすべてをもって神を愛することなどできない者なです。」と、そのことに気付かせようとしたのです。なぜなら、だれ一人として神が要求している「完璧に神を愛すること」のできる人など存在しないからです。でも、私たちが神をこの様な愛をもって愛さないということは神の前に罪を犯しているのです。神の要求に私たちは応えていないのです。「あなたのすべてをもってわたしを愛せよ。」と言われたけれど、その要求に応えている人などどこにもいないのです。ですから、「自分のすべてをもって神を愛しなさい。」と言います。
2)何ものよりも主なる神を愛しなさい
同時に「何ものよりも主なる神を愛せよ。」と言います。私たちの周りにある私たち自身が持っているすべてのもの、この世に存在するすべてのものよりも、神を愛しなさい、神を第一に愛しなさいということ、それがこのメッセージです。
(1)この世のどんなものよりも ― 仕事、趣味、友人、家族よりも!
そこにはこの世のいかなるもの、例えば、私たちの仕事、趣味、友人、愛する家族など、これらのすべてよりも「わたしを愛しなさい。」ということです。マタイの福音書19章に、一人の金持ちの青年がイエス・キリストの元にやって来て、「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」(19:16)と大切な質問をした記事があります。今、私たちが見ていることと同じようなやりとりがなされた後、イエスは彼にこのように言われました。21節「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」と。すると、この青年は悲しみながら帰って行きました。つまり、この青年は永遠のいのちよりも自分の持っている物質、自分のもっている富を優先したのです。その後で、この様子を見ていた弟子たちは非常に驚くのです。そこでイエスは24節「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」と言われます。そうすると、聞いていた弟子たちは25節「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」と質問します。26節「イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」と、このようなやりとりがあった後、27-30節を見てください。「そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」:28 そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。:29 また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。:30 ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」と、つまり、イエスはここで「わたしのためにすべてのものを捨てた人たち」、つまり、すべてのものよりわたしを愛する者たち、その人たちに永遠のいのちが与えられると言われたのです。それは家であったり、兄弟、姉妹、父、母、子、畑であったり、私たちの持っているものすべてです。
これがイエスが人々を救いに招かれたときに、救いのメッセージとして与えられたメッセージなのです。あなたはこの世のすべてのものよりも、あなたの親よりも家族よりも兄弟よりもわたしを愛するか?と。悲しいことに、この金持ちの青年は「いいえ」という選択をしてイエスの元から去って行きました。同じように、マタイの福音書10章37節にも「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」とあります。親を愛してはならないということではありません。「あなたが愛する親よりもわたしを愛するか?」と言うのです。Ⅰヨハネ2:15には「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。」と記されています。「この世」とは地球のことではありません。ここで言われている「世」とは、サタンが支配するこの世のことです。この世を支配しているサタンを喜ばせることです。私たちはサタンが喜ぶようなことを愛してはならないと言うのです。この世の中では様々な聖書の教えに反する思想や生き方などが、いろいろなメディアを通して私たちの所に伝わって来ます。専門家と言われる人たちが様々なことを言いますが、それが果たして、神が言われていることと一致しているかどうかです。私たちは専門家ということばに弱いのです。彼らはそのことをよく知っているからと。
しかし、聖書には「主を恐れることは知識の初めである。」(箴言1:7)」とあります。神の前に知恵のある人間は、どれだけのIQをもっているかとか、どれだけの学位をもっているのかではありません。神を知っているかどうかです。その神が私たちに言うのです。「この世を愛してはならない。なぜなら、この世はサタンが支配しているから、それらを愛するということは、実は、その背後にいてすべてを操っているサタンを愛することになるから」と。そして、次の16節では、この「世」についての説明がもう少し加えられています。Ⅰヨハネ2:16「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。」、自分の目が見て欲す
ること、欲しいなと思うこと、自分の内にあるそのような欲が、これを手に入れたい、このようなことをしたいと欲するのです。また、人々の前で自分の生活を自慢するという、このような生き方は神から出たものではないと言うのです。皆さん、この世は私たちに誘惑を与えます。サタンが喜ぶ生き方、もちろん、それは表には出しませんが、このような生き方にも魅力がある、この生き方にもすばらしい祝福がある、このように生きるならあなたの不満足が少しは解消されると、一生懸命この世に目を向けさせて、この世を愛してこの世に従って行くようにと誘惑をします。気をつけなければいけません。
例:デマス
デマスという一人の人物をご存じでしょうか?コロサイ人への手紙4章にパウロによってデマスはパウロの同労者であったことが記されています。「愛する医者ルカ、それにデマスが、あなたがたによろしくと言っています。」(4:14)。パウロとともに主に仕えたすばらしいデマスが、その後どうなって行くのでしょう?パウロの遺言とも言われるⅡテモテの4:10を見ると、このようなことが記されています。「デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまい、また、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマテヤに行ったからです。」、三人がいてそれぞれのところに行ったということです。「クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマテヤに」出て行ったと言うのです。彼らは神のご用のために出て行く
のです。でも、デマスは違ったのです。「デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまい、」とあります。彼は今の世を愛しているのです。だから、「私を捨ててテサロニケに行ってしまい、」と、他の二人とは違うのです。この「捨てて」ということばは「義務や約束などを破る、放棄する、また、見捨てる、見放なす」という意味です。デマスは完全にパウロを見捨てたのです。なぜ、そのようなことが起こったのでしょう?このとき、パウロはもう殉教を控えていました。大変な迫害を経験していました。デマスはそんなことは経験したくなかったからです。だから、彼はテサロニケへと出て行くのです。
テサロニケが彼の故郷だったのかどうかは分かりません。パウロといっしょにいるために迫害を受けるのなら「出て行こう」としたのです。問題のないときは良かったのです。でも、信仰ゆえに問題が生じるとそのような所から離れようとするのです。なぜ、このようなことがデマスの上に起こったのか?聖書のみことばは私たちにそのヒントをくれます。イエス・キリストが種まきのたとえを話されたことがマタイの福音書13章に記されていますが、その中に「いばらの中に蒔かれた種」のことが出て来ます。13:22をご覧ください。「また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。」、つまり、このいばらの中に蒔かれた人とは、みことばを喜んで聞いてはいるけれど、世の中のいろいろなことに心を奪われ誘惑に負けてしまうということです。四つの種まきのたと
えの中で、道端に蒔かれる種、岩地に蒔かれる種、そして、このいばらの中に蒔かれる種と、これらの三つはすべて救われていない人たちのことです。ですから、このいばらの中に蒔かれた人とは、みことばを聞いているのですが(どれだけの間聞いていたのかは書かれていません)、結果的に、世の中の惑わしに巻かれてしまってその方に行ってしまうのです。デマスの場合は、自分の身に迫って来る迫害を思う時に、そこから逃れて迫害のない生活へと行ってしまったのです。このことによって、確かに、彼は仲間としてずっといっしょにいてパウロの同労者として働いていたのですが、実は、デマスは救われていなかったことが明らかになったのです。そのようなことがあるのです。
教会の中でも、長い間、教会に集っていて、特に問題がないから、教会は別に居心地の悪い所ではないからと、ところが、信仰ゆえにいろいろな問題、困難が出て来るときに、その人の本当の姿が見え始めるのです。道端も岩地もいばらも、問題がないときはスムーズなのです。なぜなら、問題がないときは分からないのです。ところが、信仰ゆえにそこにいろいろな問題が出て来たときに、救われていない人はそこから離れて行こうとするのです。
あのイスカリオテのユダを見ても、3年としばらくの間いっしょに生活をしたのにだれ一人として「この中の一人がわたしを裏切る」とイエスが言われた時に「それはユダです。」と言いませんでした。だれにも分からなかったのです。皆、イエスの愛する弟子の一人だと思っていたのです。しかし、その中の一人はサタンだったのです。ということは、皆さん、このデマスのケースを見ても、教会の中で多くの働きをしているから、大切な働きをしているからといっても、救われているかどうか分からないということです。
では、どうすればいいのでしょう?私たちは救いのメッセージに関して、神が言われているメッセージに立たなければいけないし、そのメッセージを自らに問いかけてみて私はこの救いを信じたのかどうか、そのことを確認しなければいけないのです。確かに、聖書が言う通り、救いの道、救いの門は狭いのです。残念ながら、人間は救われて欲しいというその願いのゆえに、その門を一生懸命広げています。その結果、神が私たちにくださったメッセージが曲げられてしまうのです。純粋なメッセージでなくなってしまうのです。そのような時代に私たちは今生きているのです。なぜなら、聖書が教える救いのメッセージはとても厳しいからです。「あなたは世のすべてのものよりもわたしを愛するか?」と問われるのです。それが神を愛することであり、神をその様に愛するのでなければあなたに救いはないと言われたのです。
適用: あなたは何ものよりも主イエスを愛していますか?主のために喜んですべてのことを捨てることができますか?
(2)自分自身よりも!
この世のすべてのものよりもわたしを愛するか?と、もう一つ、自分自身よりもわたしを愛するか?と、神の救いにおいて問いかけられるのです。マルコの福音書8:34-37に「それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。:35 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。:36 人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。:37 自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。」とあります。自分を捨てなさい、十字架を負って自分に対して死になさいと言います。マタイの福音書10:38-39にも「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。:39 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」とあります。つまり、ここで言われていることは「あなたは自分自身よりもわたしを愛するか?」ということです。
そのことに関して、ルカの福音書9章に記されているイエスのことばを見てください。救いに関して今私たちが見ていることに関連してイエスは非常に大切なことを言われています。9:57-62節「さて、彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」:58 すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」:59 イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」:60 すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」:61 別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」:62 するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」(ここの並行箇所としてマタイ8:19-22を参照してください。)。ここには三人の人たちが登場します。
(a)利益を優先:
最初の人はマタイ8:19を見ると「律法学者」であると記されています。ですから、この律法の専門家がイエスに「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」と言いました。これだけを聞くなら別に悪い質問ではありませんが、イエスのお答えは58節「すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」です。何のことでしょう?
質問の答えとして何となく結びついていないと思いませんか?「ついて来なさい」と言ってくださったらいいのに、突然に「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」と、なぜ、イエスはこのような答えをされたか説明しましょう。イエスはこの人物の心を見ているからです。
このことばは確かに立派です。しかし、イエスはそんなことばを聞いているのではありません。その人がどのような思いでこのことばを言っているのか、何を考えているのかを見ておられるのです。イエスがここで言われたことは「わたしについて来ても何もない」ということです。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある…」と動物には住む所があるけれど、わたしにはその住む所さえもない、「わたしについて来ても何も物質的な利益はありませんよ」と言っているのです。
今の私たちの世界にも見られることです。非常に著名な人の友だちなら何か良いことがあるのではないか、そのような人と親しくなっているなら自分も何か利益を得ることがあるのではないかと、損得でもって人を選んでしまうなんて悲しい付き合い方です。しかし、この人がしたことはそうだったのです。これだけ著名なイエスといっしょにいるなら、きっと自分は何か利益を得るに違いないと。そこでイエスは「わたしといっしょにいてもあなたが望んでいるような利益は何もない。なぜなら、わたしは自分が枕する所もないから。」と言われたのです。イエスは彼の心をご覧になったのです。面白いことに、この後彼はイエス・キリストに従って行ったのか、従って行かなかったのか?従って行きませんでした。
なぜなら、彼にとっては利益が優先するからです。
(b)物質を優先:
二人目の人物です。59節「イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」、この返答にも私たちは違和感を感じません。正直、私はこの箇所を初めて読んだときは意味が分かりませんでした。「イエスさま、その人が言っていることは悪いことではありませんね?イエスさまはなぜそれを否定するようなことをされるのですか?」と。 しかも、イエスのことばを聞いていると、返答がかみ合っていないように思いました。なぜなら、二人目の人が言ったことに関してイエスは60節「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」と、このように答えておられるからです。
実は、この二番目の人物は一番目の人とよく似ていて、彼は物を優先したのです。イエスが言いたかったことは、物よりも主に従うことの大切さです。なぜなら、先程も見たように、イエスはこの人物の心を見ていたからです。この「父を葬る」ということ、このことで私たちがすぐに思うことは、もうお父さんが亡くなっているのだから葬らなければいけないということです。でも、これは違うのです。これは中東において一般的な出来事の比喩なのです。実際に亡くなったという意味ではありません。ジョン・マッカーサー先生はこのように言います。「父が亡くなって遺産が分割されるまで、家族の事業において父を助ける息子の責任を表わしている。」と。つまり、お父さんが今は元気でお父さんに一生懸命仕えていて、そのお父さんが亡くなったときに遺産を分割してもらえるから、その時まで私はお父さんに仕えて行きます、ということです。なぜなら、そのようにしなければお父さんが亡くなったときに自分に遺産がまわって来ないから、まわって来たとしても減額されるから、だから、遺産をもらうためにはきちんとお父さんとともに居て、お父さんが死んだときには世話しなければいけないのです。ですから、今すぐ、今死んだということではないのです。10年先、20年先のことかも知れないのです。でも、彼にとっての一番の関心は、イエスに従って行くことよりも、遺産のうち自分のもらう分をちゃんともらいたい、そのことだったのです。だから、イエスはこの様なことをおっしゃったのです。「もっと大切なことがある。神の国を言い広めなさい、神のすばらしさ、この救いのすばらしさを伝えることの方がもっと大切だ。」と言われたのです。彼はこの後どうしたのでしょう?イエスについて行ってはいません。
(c)今の生き方を優先:
三人目を見てください。61節「別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」と、これも別に悪いことではありません。別れを告げに帰りたいと言うのです。ところが、イエスが言われたことは62節「するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」です。すべてイエスは彼らの心をご覧になっていたから、彼らがなぜこのようなことを言うのかを知っておられたから、この様な返答をされているのです。つまり、この三人目の人物は今の生き方を優先しているのです。今、自分が生きている生き方を継続して行きたい、すべてを主にささげて主に従うというその決心ができないということです。今のまま生きて行きたい、それを捨てて主を心から受け入れて主にすべてをささげて生きて行く、その決心ができないということです。なぜ、そのように言えるのか、62節を見てください。「手を鋤につけてから」とそのようにして畝を作るのです。畝が真っ直ぐになるようにと前を向いて作って行くのですが、後ろを向いてするとどうなりますか?畝が歪んでしまいます。つまり、イエスがここで言われていることは「かつての生き方に心奪われているのでは主に従って行くことはできない。」ということです。かつての生き方にしがみついているようなら、心から主に従うことはできないと。つまり、彼自身は今までの生き方が捨て切れないのです。すべてを捨てて主に従って行くことができないのです。
皆さん、クリスチャンの生活とは「自分自身の生き方にイエスを加えることではない」のです。そのようにジョン・マッカーサー先生が言います。「しかし、イエスのものと交換に自分の個人的生き方を放棄することであり、要求されるあらゆる代価を喜んで支払うことである。」と。つまり、救いとは「私自身のすべてを捨てて、そして、このすべてをお造りになりすべてを治めておられる唯一真の神に従って行きましょう。どのような犠牲が伴っても私はこの方に従って行きます。」と、この世の中のすべてのものよりもこの神を愛すること、自分よりもこの方を愛することであり、それがイエス・キリストが救いに関して、人々を招くときに与えられた「招きのメッセージ」なのです。
適用: あなたは自分自身よりも主イエスを愛していると言えますか?あなたが主イエスを最も愛する人になるには、どうすればよいと思いますか?
こうして考えたときに皆さん、天国に行くためにイエスを信じましょうというメッセージは、悲しいことに、イエスが語られたメッセージではないのです。イエスが語られたメッセージは「努力して狭い門から入りなさい」です。確かに、このように見ると私たちは、だれ一人として救われることはないのではないか?果たしてだれが救われるのか?と思います。でも、神は救ってくださるのです。だから、救われた私たちはその神を称えるのです。
この律法の専門家がイエスの元にやって来て大切な質問をしました。「何をすれば永遠のいのちを自分のものとして受けることができますか?どうすればこの永遠のいのちを得ることができますか。」と。
イエスのお答えは「神を愛しなさい。それを行なえばあなたは救われます。」でした。その時に、「神さま、それはできません。私はあなたが望んでおられるように自分の100%をもってあなたを愛することができません。あなたの助けが要ります。」と、そうして神に助けを求めるのです。その時に初めて、なぜ、イエス・キリストがこの世に来られたのかが分かるのです。あなたを助けるためです。もし、あなたが自分の力で、自分の行ないで救いを得ることができるのなら、ここで言われている「神を愛しなさい」という命令に従うことができるのなら、救い主は要らないのです。
なぜ、救い主が来られたのでしょう?この神の命令に従うことが出来ないのが私たちです。だから、私たちは罪人なのです。そして、そのことに気付いた者は「神よ、私はあなたの前に命令を守るのではなく、あなたに逆らっています。私は罪人であり、私はさばかれてしかるべきであるし、そして、私はどんなに努力してもこの救いを得ることはできない、助けてください。」と叫びます。そのときに初めて、備えられた助けを見て、イエス・キリストの十字架を見て、イエス・キリストの復活を見て、ここに私の救いがある、これが神が私のために備えてくれた助けであると、その救いを喜んで受け入れようとするのです。「主よ。私を救ってください。私はあなたの命令に従うことのできない罪人です。どうぞ、私をあわれみ、私に罪の赦しを備えてくださったその救いをください。」と。
皆さん、この救いのメッセージが分かっていなければ、最初に話したように、ひょっとしたら私たちは救われていると思い込んでいるだけなのかも知れません。決心されましたか?私はこの世のすべてのものよりもイエス・キリストを、すべてをお造りになった真の神を愛して、この方に従って行こう、自分よりもこの方を愛して、なぜなら、この方は私に出来ないことをしてくださったから、私の罪のために救いを備えてくださったから、十字架で罪のない方が私の身代わりにいのちを捨ててくださった、そして、約束通りよみがえってくださったからと。皆さん、神がイエス・キリストをご覧になるときに、そこに私を見るのです。神が私を見る時に、そこにイエス・キリストを見るのです。それが救いなのです。あなたは神の前に救いを求めましたか?助けを求めましたか?そして、何よりよりも、自分よりもこの方を愛してこの方に従って行く決心をして、イエスを迎えられたでしょうか?それが聖書の教える救いのメッセージです。このときに、このことを通して、信じるすべての者に救いが与えられます。「神を愛しなさい」と言われた。神を愛することのできない私たちを神ご自身が救ってくださった。それが神がなしてくださったすばらしい救いの恵みです。
信仰者の皆さん、どうぞ、そのことを感謝しながら歩み続けることです。このメッセージを私たちは語らなければいけません。イエスを信じておられない方、これが神があなたの質問に対して与えてくださった答えです。「神を愛する者になりなさい。」と、それは神の助けによって可能となるのです。
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