Messenger:近藤修司
Passage:ローマ1:6-7
Listen: メッセージを聴く
Read: メッセージを読む
今朝、私たちはローマ1:6-7をごいっしょに見て行きます。6節には「あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です。」とあります。パウロは私たちキリスト者はみな、主なる神の家族の一員であると言っているように思われます。これまで見て来たように、パウロは神の福音について、すなわち、救いのメッセージについて説明を加えた後、ローマにいる兄弟姉妹たちに対して、私たちイエス・キリストを信じる者は場所がどこであれ、一つの家族であるということを強調しているようです。
ローマにいるあなたがたも、ここコリントにいる人々も、ユダヤ人も異邦人も、イエス・キリストを信じる者はだれであれ、みな、イエスに属する兄弟姉妹だと言います。この6節は新改訳聖書では「あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です。」と記されています。口語訳聖書を見ると「あなたがたもまた、彼らの中にあって、召されてイエス・キリストに属する者となったのである――」とあり、このように訳が違います。新改訳聖書では「イエス・キリストによって」と言い、口語訳聖書では「イエス・キリストに属する」と訳しています。どちらにも訳せることばでどちらも正しいのです。しかし、厳密に言えば、この口語訳の方が原文の意味に近いようです。なぜなら、人々を召される働きは父なる神が為さる働きであるとみことばが教えているからです。
ローマ4:17に「このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。」とありますが、この「お呼びになる方の」とは神のこと、父なる神のこと、今見ている召しのことです。ローマ8:30には「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」と記されています。父なる神がそのような働きを為されるということです。Ⅰコリント1:9には「神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。」とあり、今、私たちが学ぼうとしていることが明確に記されています。父なる神によって召され、あなたがたは主イエス・キリストとの交わりに入ったのであると。ですから、父なる神によって召され、イエス・キリストとの交わりに入り、イエス・キリストに属する者となった皆さんへと、パウロは言うのです。
このように見て来た「あいさつ」の最後の部分を今から見て行くのですが、7節「―このパウロから、:7 ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。」。この「あいさつ」を見ると、私たちはパウロがローマの兄弟姉妹たちの特徴を説明していることに気が付きます。不思議なことは、パウロは彼らにまだ会ったことがないのです。会ったことがないのに彼らの特徴を表わしています。なぜなら、会っていなくても、この特徴こそが本当のクリスチャンだからです。この特徴こそがまさに救われたキリスト者の特徴だからです。三つの形容詞がここに記されています。「神に愛されている人々」「召された人々」「聖徒たち」、この三つです。
☆クリスチャンの特徴
1.愛されている人々
先ず、パウロは「ローマにいるすべての、神に愛されている人々」と言いました。確かに、みことばを見ると「神はすべての人々を愛しておられる」と教えています。ヨハネ3:16で「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。…」と教えるように、神はこの世を、私たち人間を愛してくださっていると言います。しかし、ここで言われている「神に愛されている人々」というのは、このヨハネ3:16が教える「すべての人に対する愛」とは違った愛なのです。実はここで、パウロは主なる神の特別な愛を教えているのです。
主なる神は特別な愛をもってご自分の子を愛しておられると言うのです。この「愛されている」ということばは「最愛、親愛」と訳せることばです。イエスを信じているクリスチャン一人ひとりは、神にとって最愛の存在である、しかも、永遠の愛によって愛されていると言うのです。エレミヤは31:3でこのように言いました。「主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」、もちろん、イスラエルに対して言われるのですが、その「愛」は私たちに対しても神が示してくださっているのです。神の特別の愛は永遠であり、その永遠の愛をもってあなたは愛されているのです。しかも、その愛は決して止むことがないと言います。永遠の愛ですから当然止むことはないのですが、ローマ8:31-39にパウロはその愛についてこのように説明をしています。「では、これらのことからどう言えるでしょう。
神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。:33 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。:34 罪に定めようとする
のはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。:35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。:36 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。:38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、:39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」、神の愛が私たちをしっかり捉えてくれていると。クリスチャンである皆さん、神は確かにすべての人を愛しておられますが、イエス・キリストを信じて救われたあなたのことを特別に愛してくださっているのです。
私たちはすべての人を愛そうとします。しかし、自分の家族、自分の子どもは特別です。特別な存在です。自分のいのちさえ喜んでささげようと思う存在です。主なる神は私たちの父であり、私たちはこの方の子どもなのです。神はそのような特別の愛をもってクリスチャンであるあなたを愛していると言うのです。ヨハネはⅠヨハネ3:1で「私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。」と言っています。今、私たちは神の子ども、クリスチャンとなった、そのために神はどんなに大きな愛を私たちに与えてくださったのか、私たちクリスチャンはその神の愛をしっかり覚えておくことが必要です。
私たちの問題は、その神の愛に対して、かつて救われたときにもっていた感謝を時間とともに失ってしまうという危険があることです。そのようなことが決してあってはならないのです。ですから、私たちはしっかりどんなに大きな愛をもって神は私を愛してくださったのか、主なる神があなたの救いのために犠牲にしてくださったいのち、あなたのために備えてくださった救い、そして、罪を悔い改めて主イエスを信じたときに与えられた完全で永遠なる罪の赦し、どれほどの大きな愛であなたが愛されているのかを決して忘れてはならないのです。でも、皆さん、私たちクリスチャンが味わっている喜びを理解できない人々がいることは事実なのです。イエスを信じていない人たちはこのすばらしさを理解することができません。だから、先に読んだⅠヨハネ3:1の続きにこのようにあります。「世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。」と。
この「知らない」というのは「理解できない、分からない」という意味です。世が私たちのことを理解できないのは、「御父を知らないから」だと言います。この二つの「知らない」は時制が違います。「世が私たちを知らない」というのは現在形です。ところが、「御父を知らない」というのは不定過去です。つまり、彼らが神のことを分かっていない、神のことを信じていないから、今現在、なぜクリスチャンが喜んでいるのかが理解できないというのです。私たちが神の恵みのすばらしさをいくら話しても、人々は理解しません。神のことを分かっていない人、神を心から受け入れていない人にはこの神の祝福は理解できないのです。もう一度ローマ書に戻って、一つ目に、クリスチャンというのは神によって特別に愛されている者たちだと言いました。あなたはそのことを感謝しておられますか?私が心から期待することは、あなたはその感謝をもって今日この場に来られたはずですから、神を崇めたい、神に感謝をささげたいとそのようになってくださることです。それは大きな犠牲を伴った愛によって神が私を愛してくださり、このような恵みの中に入れてくださったからです。
2.召された人々
1節を見たとき、パウロは「…使徒として召された」とこのことばを使いました。しかし、この7節で言われている「召された」というのは、1節で言われた「働きへの召し」を指しているのではありません。救いに関することです。神はすべての人に対して、このような「招き、召し、召命」という「招き」をしておられます。すべての人への悔い改めと信仰への招き、神は確かにそのことをしておられます。旧約聖書を見ても繰り返しそのことが記されています。イザヤはイザヤ書45:22の初めに「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。」と言いました。また、同じイザヤ55:6では「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。」とあります。神はすべての人に対してこのように悔い改めて神を信じるようにという招きをしておられます。また、マタイ11:28には「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」とあります。ですから、確かに、すべての人々に神がこのような召命、召し、招きを与えておられるということを見るのです。これらは普遍的召命、一般的召命と言われるものです。
しかし、同時に、福音を聞いたすべての人がその招きに応じるわけではないことも私たちは知っています。ある人はそれに応じますが、ある人はそれを拒みます。なぜでしょう?それは主が聞いた人の心に働かれるかどうかなのです。神はすべての人に招きを与えておられます。でも、その人が心を開いてその招きに応じるのは、主がその人の心に働かれるからなのです。使徒16章にルデヤという一人の女性のことが出てきます。16:14に「テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。」と、彼女の心の中に神が働いて、彼女がそのみことばに心を留めるようにされたと記されています。
また、マタイ22:14には「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」と衝撃的なことばがあります。イエスは何のことを言われたのでしょう?「招待される者は多い」というのは福音を聞く者は多いということです。ところが、「選ばれる者は少ない」というのはその福音を受け入れる者は少ないと言っているのです。たくさんの人々が福音のメッセージを聞くけれど、実際にそれを受け入れる人は少ないのです。なぜでしょう?聞いた人のその心のうちに神が働かない限り、その人は福音に対して正しい応答をしないのです。ですから、すべての人に神の招きがあると教えますが、確かに、神の特別な招きがあることを聖書は教えているのです。特別な招き、特別な召命、それを私たちは有効召命と言います。神が招かれるのです。そして、この招きは神によって選ばれた者だけへの招きなのです。そして、この招きにはこれを信じることができるようにする力があるのです。神が選んだ人に神が働いてその人が信仰をもつように、イエスを受け入れるようにと神が働かれるのです。ローマ8:30にはこのように書かれていました。「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」と。ですから、みことばが教えていることは、神が前もって選んだ人々を神は召されるということです。ですから、神の特別な召し、心を開いてイエスを信じるというその召しに応じるのは神によって選ばれていた人々だとみことばが教えているのです。
Ⅱテモテ1:9にはこのようにあります。「神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、」と、このみことばも私たちに明確に教えてくれています。神は私たちを救ってくれた、「聖なる招きをもって」と、でも、それは私たちの働きではない、私たちが何かをしたから神は私たちを招こうとしたのではない、そのすべては神ご自身が決められた神の計画に基づくのだと言います。神の選びに基づくのです。ですから、このことをまとめると、神は確かにすべての罪人が悔い改めて主を信じるように招いておられます。しかし、その招きに応じることができるのは特別に召された人だけであると教えているのです。
オーストラリアの神学者、レオン・モーリスは「召された者は召しを聞いただけでなく、それに従った者だ」と言います。神が特別に召した人は必ずこの召しに応じる人々です。パウロが言っているこの召しは、今、私たちが見ている特別な召命、有効召命ということです。この「召命」ということばは、新約聖書にはおもしろい使い方がされています。ベーカーの神学辞典でこの「召命」ということばを見ると、「福音書」と「使徒の働き」で使われている「召命」ということばと、「書簡」と「黙示録」で使われていることばは違うと言います。どのように違うのでしょう。「共観福音書」と「使徒の働き」では、キリストによって語られる悔い改め、信仰、救い、奉仕に対する神のみことばによる招きを指しています。ところが、「書簡」と「黙示録」では神の招きに対する応答を確実なものにする神の主権的行為を含んでいると言います。ですから、一般的な招きだけでなく、神が実際にその人たちのうちに特別に働いて、その人たちがそれに正しく応答する、イエスを信じるという決心に至る、そのような神の主権的行為がこのことばには含まれているのです。ですから、パウロが明らかに教えたかったこの「召し」というのは有効召命のことです。
ここまで聞くと、私たちはいつもこのような考えをもつ人に出会います。救われていないある人々は、では、神が働かれない限り、罪人が救われないのなら、その人が受ける罪のさばきの責任はその人を救いへと選ばなかった神にあるのではないかと反論します。このことを皆さんも聞いたことがあるでしょう?もしかすると、皆さんもそのように反論して来られたかもしれません。でも、この人の間違いは何かというと、自分の責任を忘れていることです。なぜなら、神はキリスト者に「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)と命じられたからです。
なぜ、神はこのように命じられたのでしょう?それは、この世界中のすべての罪人にこの主の救いのすばらしさ、また、救いの希望があることを知らせるためです。あなたの罪は赦されるということを皆に知ってもらうためです。だれも、自分がこの有効召命を受けているかどうか、救いへと選ばれているかどうかは分かりません。でも、分かっていることは、どんな罪でも赦していただける、罪赦された者として生まれ変わることができる、永遠のいのちをいただくことができるというこの神の救いのメッセージを聞いていながら、それを受け入れないだけでなく、はっきりと自分の意志で拒み続けているのが、実は、あなただということです。だから、救われていない人、あなたは救いを拒み続けているという自分の不信仰を神のせいにすることはできません。あなたがしていることだからです。
また、クリスチャンである皆さん、救われている人、あなたは救いを受け入れたという自分の信仰を自分の手柄にしてはならないのです。なぜなら、それは神がしてくださったことだからです。救われていないあなたが永遠のさばきを受けるとき、あなたの罪が神の前でさばかれるとき、神を責めることはできません。それはあなたの望んだ選択だからです。イザヤ書の中に神の嘆きが記されています。65:12「わたしはあなたがたを剣に渡す。それであなたがたはみな、虐殺されて倒れる。」、神はさばきをもたらすということを警告されたのです。なぜでしょう?「わたしが呼んでも答えず、わたしが語りかけても聞かず、わたしの目の前に悪を行ない、わたしの喜ばない事を選んだからだ。」です。また、ソロモンは箴言1章でそのことを繰り返して教えます。22-23節「わきまえのない者たち。あなたがたは、いつまで、わきまえのないことを好むのか。あざける者は、いつまで、あざけりを楽しみ、愚かな者は、いつまで、知識を憎むのか。:23 わたしの叱責に心を留めるなら、今すぐ、あなたがたにわたしの霊を注ぎ、あなたがたにわたしのことばを知らせよう。」と、あなたたちが災いに会うのはあなたたちがわたしに対して心を向けなかったからだと言います。神はさばくことを喜んでおられるのではありません。さばきがあることを警告し、その警告に耳を傾けなかったそれゆえに、神の約束がその通りにあなたの上に実現するのです。
みことばが私たちに教えてくれたこと、神は確かにすべての罪人が悔い改めることを望んでおられます。そのために、私たち救われた者はこの福音のメッセージをすべての人々に伝えるのです。しかし、同時に、神がその人のうちに特別に働いてくださらなければ、神が選んでくださらなければ、このメッセージに応答することはできません。だからといって、聞いたメッセージに対してそれを拒み続けるというあなたの責任をだれかのせいにすることはできないのです。あなたはこの救いのメッセージを聞いた者として、それにどのように応答するのかという責任があるのです。どうぞ、まだイエスを信じておられない方、間違った選択をし続けないでください。神はあなたの罪を赦してくださる、しかし、そのためにはあなたがその救いを求めて出て来ることが必要です。神は特別にクリスチャンである私たちを召してくださった、私たちを選んでくださったと、そのように教えるのです。
3.聖徒たち
「聖徒たちへ」と記されています。「聖徒」とは「聖なる、聖別された者」です。ヘブル語の「カデシュ」ということばがあります。区別する、分離する、普通の使用を止める、という意味です。その意味を表わすことばとして、ギリシャ語の「ハギオス」ということばが使われています。それがここに出ている「聖徒たち」ということばです。この意味を正しく理解するために、旧約聖書の中ではどのようにこのことばが使われているのかを見ましょう。神は聖い方です。ですから、神によって用いられるものも当然聖くなければならない、ですから、さまざまなものが聖別されたのです。場所や物、人などが聖別されました。神から幕屋を造るようにと命じられて人々は幕屋を作り、聖所を作りますが、そこから出て来たとき、その上に雲がそこを覆ったと言います。Ⅰ列王記8:10「祭司たちが聖所から出て来たとき、雲が主の宮に満ちた。」と、神が特別にその場所を聖められました。
それを周りにいた人々は明らかに見ることができました。聖所や至聖所を神は特別に聖められたことをみことばは教えています。また、人々としては祭司たちが特別に神によって聖められました。主がモーセにアロンの子どもたちにこのように語れと教えています。レビ記21:6「彼らは自分の神に対して聖でなければならない。また自分の神の御名を汚してはならない。彼らは、主への火によるささげ物、彼らの神のパンをささげるからである。彼らは聖でなければならない。」と。ですから、アロンの子どもたちを聖めなさい、聖別しなさいと教えているのです。
また、私たちが分かっているように、イスラエルという国は神によって特別に選ばれた国です。「聖なる国民になる」ということが繰り返しみことばに教えられています。レビ記20:26「あなたがたはわたしにとって聖なるものとなる。主であるわたしは聖であり、あなたがたをわたしのものにしようと、国々の民からえり分けたからである。』」。また、申命記7:6には「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。」とあります。ですから、今見て来たように、神はある特定の場所や人々、国を特別に選ばれて、神がご自分の目的に沿って用いようとされたのです。だから、聖められたのです。
新約聖書ではどうでしょう?これはすべてのキリスト者に適用されるのです。Ⅰペテロ2:9でペテロはこのように教えています。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」と、今見た旧約聖書の神の教えを思い出してください。イスラエルに対する神の教え、アロンの子どもに対する神の教えと似ています。特別に選んだと言います。「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」と、だれに対してこのように言われているのでしょう?クリスチャンです。あなたに対して、あなたはこのような存在だと言っているのです。何のために神は私たちをこのような者にしてくださったのでしょう?「それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」と、神があなたを救ってくださり、あなたを聖めてくださったのは、神があなたを用いてこのすばらしい神のことを人々に明らかにするためです。かつてのイスラエルがそうでした。神によって用いられた者たちは皆そうでした。今、この時代にあって、神はあなたをそのように用いようとしておられるのです。ですから、この「聖徒」とは主によって罪が赦され聖くされた人のことです。罪の衣を脱ぎ捨ててキリストの義なる衣を着た者たちです。そして、主の栄光のために生きて、主を宣べ伝える者たちです。それが「聖徒たち」です。
パウロはこの三つの特徴を挙げました。クリスチャンは神によって特別に愛されている者、神によって特別に召された者、神によって聖められて神の特別な働きのために用いられる人たちだと言います。そのことを話した後、最後に、パウロの願いが記されています。7節の後半です。
☆パウロの願い 7b節
「私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。」
1.祝福を願ったあいさつ
「恵みと平安が」と記されています。確かに、この「恵み」はギリシャ人へのあいさつであり「平安」はヘブル人のあいさつです。しかも、祝福を願ったあいさつだということは皆さんもよくご存じでしょう。
(1)恵み:受けるに値しないふさわしくないご好意である、恩恵であると見て来ました。神のご好意であり、恩恵であると5節で見ました。ですから、この「恵み」はさばかれて当然の罪人を神が救ってくださる、その救いのすばらしい神のみわざであると私たちはみことばを通して教えられています。しかし、同時に、Ⅰコリント15:10を見ると、ここにはこの「恵み」は神が私たちを罪から救ってくださるだけでなく、救われた者が主の命令に従って行くための助けであり力であるということが教えられています。「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」、救われた恵み、そして、信仰者として神のみこころに神の命令に従って行く力、それも恵みだと言います。だから、パウロは「私は恵みによって救われ恵みによって生かされている」と言うのです。この「恵み」というのは信仰者となるために、また、信仰者として生きるために不可欠なものです。救われるために神の恵みが必要です。行ないによっては救われないのですから。同時に、クリスチャンとして生きて行くためにこの「恵み」が日々必要なのです。なぜなら、「恵み」によって私たちはみことばにみこころに命令に従って行くことが可能となるからです。
(2)平安:私たちは「シャローム」と言います。神だけが与えることのできる祝福です。イエスがこれから十字架に架かるということを話したとき、動揺していた弟子たちに対してイエス・キリストはこの「平安」について話されました。ヨハネ14:27「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」、「心が平安である」とはどういう状態でしょう?心が幸せに満ち溢れているとき、心から満足できるとき、心が安らかに憩っているとき、そのような状態のときではありませんか?どんなに辛く悲しく苦しい出来事や孤独から来る淋しさを経験していても、この「平安」によって心が守られるのです。なぜなら、もうすでに、神は私たちに「神の平安」を与えてくださったからです。しかし、その平安を私たちが保ち続けて行くためには、神の助けが必要なのです。
ピリピ4:6-7にパウロはこのように教えています。「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。:7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」、「そうすれば」とあります。あなたの心が平安に守られるためには、6節「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」と言うのです。私たちのうちから平安がなくなるときは間違いなく感謝もなくなっています。私たちは「この問題がなくなったら感謝します」と言います。
しかし、私たちはその問題を神にあって感謝することをしないのです。みことばが私たちに教えていることは「何も思い煩わない」ことです。どんなことでも思い煩わない、そして、あらゆる場合に感謝をもって祈りをささげなさいと言います。今、苦しいことがあったらあなたはそのことを神に感謝することができるのです。なぜでしょう?私たちがそのすべてをもって行く神を信頼しているからです。私たちが神のところにもって行かないのは神を信頼できないからです。神以外のところに解決を求めようとするからです。ですから、みことばが教えてくれることは、平安を保持でいない原因は平安の源である救い主なる神に助けを求めないことだと言います。同時に、平安を与えることのできないところに助けを、救いを求めているからです。だから、いつまで経っても平安がないのです。このあいさつを見ると「主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。」とあり、「平安と恵み」とは書かれていません。それは平安をもって歩み続けて行くためには、恵み、すなわち、神の愛、あわれみが必要だからです。この神の恵みが平安の源なのです。あなたが神の愛を覚えあわれみを覚えその神の前にすべてのことをもって行くとき、神があなたの心に平安をくれるのです。
2.父なる神と主イエス・キリストから
前後しますが7節に「私たちの父なる神と主イエス・キリストから…」祝福があるようにと記されています。パウロはこの最後のところでも私たちに大切なことを思い起こさせるのです。それはイエス・キリストがだれかということです。イエスが神であるということをここでも教えるのです。父なる神からも、イエス・キリストからも祝福が与えられると、つまり、パウロが言いたかったことは、父なる神とイエス・キリストが等しいお方、イエスが神だということです。しかも、1節には「キリスト・イエス」、4節には「主イエス・キリスト」、6節には「イエス・キリスト」、7節にはまた「主イエス・キリスト」とあります。この「主」という称号、これは旧約聖書の中に出てくる神の名前「ヤーウェー」です。6826回も出てくるという「ヤーウェー」という神の名前です。約束を守る神、契約の神のことです。
つまり、ここでパウロが言うことは、このイエス・キリストは「主」である、至高の方であり主権者である、約束を守られる神であるということです。「イエス」は「救い主」という意味です。「…その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(マタイ1:21)。「キリスト」はメシヤ、油注がれた者、罪の贖いと解放という特別の任務を果たすために神によって選ばれたリーダーのことです。ですから、パウロはもう一度ここでイエスがだれかということを教えるのです。この方は神であり、この方は救い主であり、この方は贖いをなすために特別に主によって召された者であると。
このような神だから、あなたの心を常に平安に守ってくれることができるのです。このような神だから、あなたは恵みをいただきながら生きて行くことができるのです。この方こそ、私たち人間が必要としている救い、永遠のいのち、また、日々の生活における平安と喜び、祝福を与えることができる唯一のお方です。この方は「主イエス・キリスト」であると。パウロが教えていることは宝に満ちていることです。私たちは確信をもって生きて行くことができるのです。救いもクリスチャンとして生きて行く日々の生活にも、この方が間違いなく祝福をくださるのです。もし、あなたがこのお方に心を開くなら、そして、日々、私たちがこのお方にすべてをゆだねて歩んで行くなら…。確かに、この方こそすべての栄光をお受けになるのにふさわしいお方です。この方は神です。この方によって私たちクリスチャンは選ばれ救われたのです。感謝です!
Podcast: Play in new window | Download