Messenger: 近藤修司
Passage: ローマ1:1-7
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あの宗教改革を行なったマルティーン・ルターは、このローマ書を新約聖書の傑作と呼び、また、「ローマ書は何度読んでも読み過ぎるということはなく、読めば読むほどその尊さを増し味わいを増して来る」とそのように言いました。ルターはカトリックの修道士としてドイツのヴィッテンベルグ大学でこのローマ書の講義をしていました。その学びをしていた中で彼自身がイエス・キリストを信じる信仰へと至るのです。キリスト教史の中で最も偉大な神学者の一人と言われているアウグスティヌスも、そして、イギリスやアメリカで伝道に従事したジョン・ウェスレーもこのローマ書の教えによって、一人ひとり救いへと導かれて行ったのです。多くの人々に大きな影響を及ぼしたこの「ローマ人への手紙」ですが、なぜ、この手紙がそれほどの力をもっているのでしょう?この手紙を見て行くとき、私たちは人間についていろいろなことを教えられます。人間とは本質的にどういう存在なのか、なぜ、人間は神を拒むのか、人間はどのようにして生きようとするのか、また、その結果どのようなことが訪れるのか、罪についても、また、そのさばきについても、このローマ書は私たちに教えてくれるのです。このローマ人への手紙を学んで行くと、私たちは聖書が教える神がどのようなお方であるかということをより明確に学んで行きます。どのようなことを愛し、どのようなことを憎んでおられる方なのか、私たちはどうすれば罪が赦されて救いを得ることができるのか、恐らく、この手紙は私たちに神の福音がどんなにすばらしいものかを明確に教えてくれるゆえに、歴史の中で多くの人々がこの手紙によって救いへと導かれて来たのでしょう。
1:1には「神の福音のために…」とあり、16:25,26にも「私の福音…」とあります。ですから、「福音」に始まり「福音」に終わる書であることが明らかです。
【アウトライン】
1-8章 :神の義 救い、裁き、人間の罪、義とされる救い、聖くされて行く聖化
9-11章 :神によって選ばれたイスラエル イスラエルの過去、現在、未来
12-16章 : 義とされた一人一人の具体的な生き方、信仰者として本当のクリスチャンとしての生き方
救いがどんなにすばらしいものか、神はどんなにすばらしいお方であるかを教えた後、では、それを信じた者はどのように生きて行くべきなのか、そこまで詳しく教えてくれています。それだけでも、私たちはこのみことばをしっかり学んで行きたいという願い、思いが与えられます。
【著者】
ご存じのように、このローマ人への手紙はパウロが書きました。ユダヤ人でありベニヤミン族に属する人物です。彼のユダヤ人名はサウロと言いました。これは「尋ねる、尋ねた」という意味をもったヘブル語から来た名前です。彼はこの名前をユダヤ人の社会において用いました。非常におもしろいことは、使徒の働き13章からパウロは異邦人のところへ出かけて行きますが、そのときから、彼の名前はサウロからパウロへと変わって行きます。新たな名前が与えられたのではなく、その当時のローマ市民はこのように複数の名前をもっていました。ほとんどの人が三つくらいの名前をもっていたのです。個人名、族名、第三の名前は家の名前であると言われています。パウロの第一の名前、第二の名前が何であったのか、みことばは教えていません。でも、恐らく、この第三の名前がパウロだったようです。これはラテン語のパウルスということばから来ていて「小さい」という意味をもっています。いずれにせよ、ユダヤ人の中にいたときにはサウロと呼ばれていたこの人物が、異邦人の働きのために神によって立てられ用いられて行く、そのとき彼はパウロという名を用いたのです。
パウロが生まれ育ったのは、現在のトルコの南部にあたるタルソという町です。この町はギリシャ人教育と文化の中心でした。ここにはローマ帝国内の三つの有名な大学のその一つがあり、恐らく、パウロはこのタルソでしっかり訓練を受けた後、エルサレムに行ってガマリエルというイスラエルを代表するラビ、ユダヤ教の教師から学びを受けました。律法に関しては非常に厳格であったし、また、彼の父はローマ市民であったゆえに、彼は生まれながらにローマ市民権を博していたのです。このパウロ、ご存じのように彼は当初、キリスト教徒、クリスチャンたちを迫害した人物でした。彼はエルサレムから北東の方向に約6日の道のりを歩んで、ダマスコというシリヤの首都に向かっていました。その町は約15万人の町で多くのクリスチャンたちがいたのでしょう、彼はそこでクリスチャンを迫害しようと、その目的で出かけて行ったのですが、その途上で、復活のイエス・キリストに会い、イエス・キリストを信じる信仰へと至ったのです。このことは皆さんよくご存じのことだと思います。
【執筆場所】
この「ローマ人への手紙」は明らかに手紙ですから、パウロはある場所でこれを記しているのです。彼がこの手紙を書いたのは、ギリシャのコリントという町でした。恐らく、彼はこのとき第3回目の宣教旅行に出かけていました。そして、これからエルサレムに戻ろうとしているのですが、その前に彼はこの手紙を記すのです。約3ヶ月間、彼はコリントに滞在するのですが、そのときにエルサレムにいる兄弟姉妹たち、働きの中心はエルサレムの教会にあったのですが、非常に貧しい教会であったから、新しい教会、イエスを信じた人々から醵金を募って、それを持ってエルサレムに行こうとするのです。そして、エルサレムに行く前に彼はこの手紙をローマにいる兄弟姉妹たちに宛て、ローマに行こうとしていたフィベに託し、その後、彼はエルサレムに移ったことが私たちには見て取れるのです。このローマの教会にはユダヤ人と異邦人が混在していました。
このローマ書の中を見て行くと、あるところではユダヤ人の会員に対して、また、あるところでは異邦人の会員に対して話が為されています。また、最後の16章を見ると、26名の名前が挙がっていますが、その3分の2がギリシャ名をもっています。ですから、この教会にはユダヤ人と異邦人がともに集っていたことを見ることができます。
【執筆の目的】
この手紙の背景を見ておきましょう。なぜ、パウロはこの手紙をローマの教会に託したのか、その目的です。1:11に「私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。」と記されています。パウロはこのローマの教会を一度も訪問したことがなかったのですが、彼はこの教会をできるだけ早く訪問して、兄弟たちを教え励ましたいという思いをもっていたことがここに記されているのです。また、12節を見ると「というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。」とあり、励ますだけでなく、自分も励まされたいということを記しています。
また、15節を見ると「ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。」とあります。ですから、パウロは兄弟姉妹たちとの間にあって互いに励まし合う、また、パウロ自身がしっかり彼らを教えて行くというその働きだけでなく、ローマにいる多くの人々にともに伝道したいと望んでいたことを私たちはここで見て取ることができるのです。そして、後半の15章を見ると、30-31節にはこのように記されています。「兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によって切にお願いします。私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。:31 私がユダヤにいる不信仰な人々から救い出され、またエルサレムに対する私の奉仕が聖徒たちに受け入れられるものとなりますように。」、つまり、パウロは自分の働きのためにこのローマの愛する兄弟姉妹たちに祈ってもらいたいと、そのようなことを願っているのです。このような背景のもとにこの手紙は記されているのですが、今、ごいっしょに1章から見て行きましょう。
聖書箇所:ローマ人への手紙 1章1-7節 「神の福音 1」
1:1「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、」
日本語ではこのような訳になっていますが、原語ではこのように訳します。「パウロ、しもべ、キリスト・イエスの、使徒として召され、神の福音のために選び分けられた」と。あえて、今このように言ったのは、パウロは最初にこの「キリストのしもべ」ということばを記しているからです。日本語では残念ながらそれが最後になっています。
【自己紹介】
この1節のみことばを見ると、パウロは自分自身について三つの説明をしています。自己紹介のように、私はこういう者だということを彼はこの1節で紹介するのです。
1. キリスト・イエスのしもべ
「しもべ」は「奴隷」とも訳すことができることばです。ここで私たちがしっかり覚えておきたいことは、この当時、ローマ帝国、ローマ市にはたくさんの奴隷が存在したということです。ある学者はこのようなことを言います。紀元1年にはこのローマ市は90万から95万人位の人口があっただろう、その中で奴隷の数は30万から35万位いたと。人口の約1/3近くが奴隷だったというのです。いろいろな形で人は奴隷となりました。戦争に負けて奴隷とされた者もいたし、また、破産が原因で身売りして奴隷になった者もいました。また、家の家長は自分の子どもを奴隷として売ることもできました。その当時、所有する奴隷が多ければ多いほどその人の社会における威信は大きかったのです。私たちは奴隷というと鎖につながれたようなイメージを描いてしまいますが、ローマの奴隷たちは理容師であったり給仕であったり、メッセージを伝えるメッセンジャーであったり会計士であったり家庭教師、秘書、大工、配管工、図書館員、金細工人と、このような働きをしていました。また、ある者は医者であったり、建築家であったり、ビジネスのマネージャーなどという高い地位の仕事にも就いていました。多くの奴隷たちは高い教育を受けていました。ゆえに、彼らはその当時の帝国の官僚政治にも関わっていたと言われています。ですから、これだけ見ても私たちが描く奴隷のイメージとはかなり違います。でも、そういう時代だったのです。それでいながら、やはり奴隷は奴隷でした。彼らは物として扱われていました。たとえば、一人の奴隷が主人を殺害した場合はその主人のすべての奴隷が裁判なしで処刑されたのです。なぜなら、その犯罪を皆で防ぐことができたにも関わらずそれをしなかったということは、皆も共犯だと見なしたのです。また、主人が自殺した場合でも同じでした。同じような理由で奴隷たちは処刑されました。ですから、人としての人権はなかったのです。
さて、そのような背景の中にいたパウロ、彼が先ず最初に自分に関して記したことは、私は「キリスト・イエスのしもべ」である、キリスト・イエスの奴隷であるということです。パウロは何を言いたかったのでしょう?二つのことを私たちは今覚えておきたいのです。
(1)キリスト・イエスの神性
明らかに、イエス・キリストの神性です。イエス・キリストが神だということです。というのは、旧約聖書においてもこのように「しもべ」ということばはたくさんの勇者たちに使われていました。たとえば、アブラハムは詩篇105:6と42で「主のしもべアブラハムの…」「そのしもべアブラハムへの…」と記されています。また、モーセについても民数記12:7-8で「わたしのしもべモーセ」と言われています。「:8 彼とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、主の姿を仰ぎ見ている。なぜ、あなたがたは、わたしのしもべモーセを恐れずに非難するのか。」と。ダビデもそうでした。Ⅱサムエル7:5に「行って、わたしのしもべダビデに言え。」とあり、8節にも「今、わたしのしもべダビデにこう言え。」とあります。預言者たちもそのように呼ばれました。アモス書3:7にも「ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。」と、ゼカリヤ1:6には「わたしのしもべ、預言者たちにわたしが命じた、」とあります。こういうリストはもっと挙げることができますが、旧約聖書の中でもある人は神のしもべと呼ばれたのです。神がお選びになった特別な人々です。パウロは自らのことを「神のしもべ」と言わず「キリスト・イエスのしもべ」と言いました。つまり、旧約聖書の中でアブラハム、モーセ、ダビデ、多くの預言者たち、神に仕えた者たちが「神のしもべ」であったように、パウロは「私はキリスト・イエスのしもべ」と言って、つまり、キリストは旧約の人々が仰ぎ、愛し、恐れ、仕えたあの神と同じであることを示したのです。彼が最初にそのことを伝えるというのは、最初に話したように、このローマ書の中で神とはどういうお方なのか、神のその救いのみわざがどんなにすばらしいものなのか、どんなにあわれみに富んだものなのか、そのことを私たちが理解するために、私たちが初めに知らなければいけないことは、このイエス・キリストがいったいだれなのかということだからです。そのことを知らずして私たちは神のすばらしい恵みを知ることはできないのです。
(2)私は神の所有である
先ず、パウロ自身はこのイエスがいったいだれなのか、すなわち、イエスが神であると言いましたが、同時に、パウロは自分が「神の所有である」であることも当然教えているのです。キリスト・イエスのしもべ、キリスト・イエスに属する者とキリスト・イエスに所有権があるのです。自分はこのイエス・キリストの持ち物であると、そのことを明確にしたのです。救われたクリスチャンたちは皆そうです。私たちの所有者は主です、神です。パウロはそのことを明確にするのです。覚えておられるように「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(Ⅰコリント6:19-20)と、神が代価を払って私たちを買い取られた、だから、私たちの所有者はこれまでのサタンから真の神へと変わったと言うのです。私の所有者、私の主人は神であると。私たちはこの「奴隷」ということばを聞いても余りピンと来ません。でも、みことばを見るとき、この奴隷はどのような立場の者であったのかを知ることができます。
奴隷の立場=
(a)主人への全き従順が要求された:
申し訳ありません、やりたくありませんとそのようなことが言えなかったのです。完全な従順、服従が要求されているのです。マタイ8章でイエスは百人隊長との会話の中でそのことを私たちに教えています。8:5から「ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、:6 言った。「主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。」 :7 イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」 :8 しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。 :9 と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」と、奴隷たちは主人の言うことをその通り行なったのです。その責任があるのです。
(b)主人からほめられることも感謝されることもない:
また、ルカ17:7-10を見てください。イエスと使徒たちとの会話です。「:7 ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい。』としもべに言うでしょうか。」と、これを聞いた人たちはこのようなことが自分たちの周りでは常に行なわれていたからよく分かりました。この当時のしもべがどのように扱われていたのかを私たちは知ることができます。「:8 かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい。』と言わないでしょうか。」と、どんなにしもべが疲れていようとも自分の仕事をしなさいと言うのです。「:9 しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。:10 あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」と、つまり、この当時のしもべたちは主人に全き服従が要求されただけでなく、自らの働きに対してほめられることも感謝されることも全くなかったのです。その中できちんとあなたは自分に与えられたことをして行きなさいと言われたのです。
(c)主人は奴隷たちにあらゆる権力を行使できた:
マタイ25:30に「役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」と非常に厳しいことばが記されています。このようなことをされても主人に文句は言えないのです。それだけの権力をこの主人はもっているのです。そして、四つ目に
(d)どのような主人であってもしもべの責任は絶対的な服従:
Ⅰペテロ2:18でペテロはこのように教えます。「しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。」と。
ですから、私たちが今見て来たように、奴隷たちはこのような扱いを受けてきたのです。奴隷たちに与えられている責任は、主人に対する絶対的な服従であったし、自分のした働きに感謝もされなかったし、彼らに要求されていることはただ主人の命令に従うこと、そして、どのような主人であろうとその主人に絶対に服従することでした。そういうことをすべて知っているパウロは、敢えて、自分は「キリスト・イエスのしもべ」だと言ったのです。ですから、彼自身はこのことばを使うことによって、こうして見て来ているように、私はこのイエス・キリストに属する者であり、私の所有者はイエス・キリストであり、ゆえに、私の責任は絶対的にこの方に服従することであると言うのです。この方が私をほめてくれようとくれまいと関係なく、私はこの方に従い続けて行くと言います。私たちはこのようなことを聞くと、自由がなくてつまらない、そんな生活は…と思うかもしれません。でも、パウロはいやいやこのようなことを言ったのではないし、いい格好をしてこんなことを書いたのでもありません。パウロは喜んで自分がキリスト・イエスのしもべであることを大いに誇ると言うのです。なぜなら、この主人がどれほどすばらしい主人であり、自分のためにどんなことをしてくれたかということを彼はよく知っていたからです。何度も私たちはパウロの証を見ますが、Ⅰテモテ1:13でそのことを彼は明確に教えてくれます。「私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。」と、ということは、パウロは自分のことをよく知っていたのです。
人と自分を比較することはしませんでした。彼は自分がどのような者か、どのような人間なのか、そのことをよく知っていました。私は本当に神の前に汚れに汚れた罪人にすぎない、私がして来たこと、それを見るときに私は罪に罪を重ねて来たと言います。同時に、彼は神の恵みを正しく知っていました。
Ⅰテモテ1:14-17に「私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。:16 しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。:17 どうか、世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄えとが世々限りなくありますように。アーメン。」とあります。パウロがどれほど神の恵みを知って、その恵みを感謝していたか、お分かりのことと思います。彼はどこを見ても、私のうちに救われる資格があるとか、救われる価値があるとか、私はあの人に比べて優っているとか、そのようなことは少しも記されていません。私は滅んでしかるべき者、さばかれてしかるべき者、私は地獄が最もふさわしい者、しかし、神はこのような私をあわれんでくださって、こんな私を救い出してくださった、この罪人のかしら、罪人の中でも最も罪深い者である私をこのように救って神の子どもにしてくださった、だから、この方が誉め称えられるようにと言うのです。ですから、パウロは自分がどんなに罪深い者であるかをよく知っていました。そして、こんな自分を神が救ってくださったということを知っていたのです。私たちが見て来たように、奴隷は主人によって代価を払って買い取られた者です。パウロは神がこんなに罪深い私を救うために、私の罪を赦すために、どんなに大きな代価を払ってくれたのかを知っていました。神のひとり子、イエス・キリストのいのちという代価によって自分は救われたと、そのことを知ったときにパウロは喜んでこの方のしもべでありたいと、そのことを誇りに思ったのです。
旧約聖書の中でもそのようなことが記されています。出エジプト21章にそのことが記されています。21:1-6「あなたが彼らの前に立てる定めは次のとおりである。:2 あなたがヘブル人の奴隷を買う場合、彼は六年間、仕え、七年目には自由の身として無償で去ることができる。:3 もし彼が独身で来たのなら、独身で去り、もし彼に妻があれば、その妻は彼とともに去ることができる。:4 もし彼の主人が彼に妻を与えて、妻が彼に男の子、または女の子を産んだのなら、この妻とその子どもたちは、その主人のものとなり、彼は独身で去らなければならない。:5 しかし、もし、その奴隷が、『私は、私の主人と、私の妻と、私の子どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません。』と、はっきり言うなら、:6 その主人は、彼を神のもとに連れて行き、戸または戸口の柱のところに連れて行き、彼の耳をきりで刺し通さなければならない。彼はいつまでも主人に仕えることができる。」と、奴隷は7年目には自由になりました。そこで初めて選択が与えられるのです。自由の身となって出て行くことができました。もう一つの選択は、そこに奴隷として留まることができることです。どのような場合でしょう。その奴隷が私はこの主人が大好きだから、主人を愛しているからここに居たい、この方に仕え続けて行きたいと、そのような場合はそこに留まることができたのです。そして、その奴隷を戸口の柱のところに連れて行って耳にピアスをしたのです。それはしるしでした。そのようにきりでピアスをあけられている奴隷を人々が見たとき、この奴隷は主人のことを心から愛しているのだと分かるのです。そのことがここに記されているのです。自分の選択でできたのです、私はこの主人を愛するからここにいたいと。パウロがそうでした。パウロは自分の主であるキリスト・イエスを見たとき、こんなにすばらしい主人は他にはいない、今まで自分が仕えて来た主人とは違う、この世の富、この世の名声、この世のものは私に様々な幸せを約束したけれど、そこには何もなかった、しかし、このイエス・キリストは私の罪を赦し、何をもっても満たされないこの心を満たしてくれた、この方が私の主人であり、私は喜んでこの方に仕えて行きたい、私はこの方を心から愛していると、そのように言ったのです。そのときには奴隷として留まることができたのです。そして、パウロはキリストに「留まる」ことを選択しました。です
から、パウロが先ず最初に、この手紙を書き出すときに、このローマの人々に対して、私は喜んで自ら進んでこのキリストの奴隷なのだ、私はこのキリストを心から愛している、それはこんな罪人のかしらである自分に対して神はこのようなすばらしい恵みを与えてくれたから、私がこのように救われているのも、私がこうして永遠を目指してそれを待望して生きているのもすべて神の恵みである、私が何かをしたからではない、私の行ないでもない、すべて神の恵みによってこのようなすばらしい祝福にあずかったのだと、そのように言うのです。だから、彼はそのことを大いに誇ったのです。
今日、私たちはこのみことばをすべて終えることはできませんでしたが、先ず、皆さんに覚えていただきたいことは、私たちはこのような思いをもってイエスを見上げているかどうかということです。私はキリストの奴隷です、私はこのキリストに仕えることを本当に喜びとしていると。もしそうでなければ、どこに問題があるのかというと、あなたに対して神は何をしてくださったのか、その神の恵みがもしかするとあなたの中で薄れてしまっているかもしれません。私たちはいつもこのイエスの十字架を見上げていなければいけないのです。イエスの大きな犠牲を…。こんな私をこのように愛してくださった、パウロがそうであったように、自分を正しく知り神の恵みを正しく知ることです。救われる価値の全くない私を神は救ってくれた、ご自分のいのちと引き換えに罪の赦しをくださった、それがパウロのこのような告白になったのです。
どうでしょうあなたは?キリストのしもべであることを喜んでおられますか?キリストの奴隷であることを誇っておられますか?この方が為してくださった救いのみわざを見るとき、私たち信仰者は一人ひとり、パウロと同じように言うことができるはずです。「私は自ら喜んで進んでこのキリスト・イエスの奴隷であり続けたい、そのことを誇りに思う」と。それが神の恵みによって救われた者たちのこの世に対する告白です。「私はキリストの奴隷である」と。
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