Messenger: 近藤修司
Passage: コロサイ3:18?4:1
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創造主なる神との関係が新たにされた私たちクリスチャン、今度は人との関係においても新たにされました。すでに私たちが見て来たように、教会において兄弟姉妹との関係にも変化が生じました。そして、その変化は私たちの家庭においても現われてくるものです。夫婦の関係において、親子の関係において、そして、今は存在しませんが、主従の関係、主人としもべの関係において、新しい関係が生まれて来るのです。
今日、私たちはコロサイ3:18-19のみことばを学んで行きます。パウロはここで、新しい夫婦の関係について教えるのです。今、確かに私たちのこの日本にあっても、家庭には大きな問題があります。約30年ほど前、私はアメリカ・テキサス州のクリスチャンのキャンプ場でカウンセラーをしていました。夏の間に子どもたちがやって来て、私たちは大体6人から7人の子どもたちの世話を1週間するのですが、今でも忘れることができないのは、日曜日の午後に子どもたちはヒューストンからやって来るのですが、その時、バスに乗る前にお母さんから「楽しんでいらっしゃい、でも、今週、あなたのお父さんとお母さんは離婚するのです」とそのように言われてキャンプに来た男の子のことです。
しかも、聞いてみると、そのキャンプで世話をした子どもたちの中で両親の離婚を経験したケースが余りにも多かったことに驚きました。今、この日本にあっても年間約28万件の離婚があると言われています。そして、これから先、この国にあって熟年離婚が増えて行くと言われます。実際、数だけ見ると2003年から熟年離婚の件数は減っていると言われています。しかし、減尐するのも今年までであって、来年2007年からは特に熟年離婚の数が爆発的に増えるだろう、約40万件位になるのではないかと、そのような推測をする専門家たちがいます。その予兆は、あるテレビ局のドラマが「熟年離婚」というタイトルで放映したところ、その最高視聴率は21.4%で、そのテレビ局の連続ドラマの中では歴代1位だったと、なぜそのようなものを見たいのかと思いますが、この国ではそれが人々の関心となっているということができるでしょう。そこで、来年から熟年離婚が増えて行くその理由として専門家たちが挙げていることが二つあります。一つは、来年4月1日から施行される年金分割制度であると、つまり、妻が今よりも夫の年金をたくさんもらえるということです。
ですから、その時まで待とうということです。もう一つは、団塊世代の定年退職が近づいて来ている、来年からそれが始まる、そうすると妻たちは退職金という財産の分与を待っているゆえに、今しばらく離婚を待っていると言います。増加するのは離婚だけでなく、別居もそうだと言います。将来の年金分割を待つ熟年妻たちが、夫とともに暮らしその顔を見るのも世話をするのもいやだからと、別居を始める人も確実に増えて行くと。すでに2003年頃から別居し生活費を請求する妻たちが増えていると言います。別居と離婚の増加は単身世帯の増加でもある、熟年離婚により独居老人大国になってしまうかもしれないと危惧する専門家たちもいます。老後を淋しさの中で過ごして行く、そのような人たちが増えるのではないか、確実なことは、家族は病んでいます。家庭にはいろいろな問題があります。夫婦の問題、親子の問題、それはもう他人事ではなくなってきました。今の私たちの周りではそのようなことが現実の問題として、私たちの前に、また、もしかすると、皆さんの中にもそのような問題を現実に経験しておられるかもしれません。
聖書はそのような問題に関しても答えを与えてくれます。どうすればあなたの家庭が変わるのか、どうすればあなたの家庭が本当に幸せなものになるのか、神は確かに私たちに答えを与えてくれています。私たちを造られた創造主なる神は、こんな時代がやって来ることを当然知っておられます。そして、人間の問題がどこにあるのか、どうすれば私たちが変わり、私たちの家庭が変わるのかご存じです。ですから、聖書を見て行くとき、そこに大切な神からの教えを見い出し、同時に、私たちはそこにすばらしい希望を見い出すのです。どんなに今大変な状況にあっても変わって行きます。どんなに問題があってもそれは変わります。神がそれを可能にしてくださるのです。
では、どのようなことを聖書が私たちにこの夫婦に関して教えているのか、そのことを今日私たちはこのコロサイ3:18-19から学んで、次回、今度は親子について学びを続けて行きます。
☆夫婦に関して聖書が教えること
1.妻たちへ 18節
「3:18 妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。」、これが妻たちへの教えです。パウロが教えたこと、パウロが妻たちに命じることは「夫に従いなさい」です。確かに、夫に従うというのは私たち日本人にとっては新しい教えではありません。私たちは過去の家父長制の中で生きて来たわけで、その
中では婦人たちはそのように教えられてきました。私たちの国、日本はそのような国でした。確かに、形としては夫に従っているけれど、心から従っているかというとそこには様々な疑問があるでしょう。聖書は私たちに同じことを言っているのでしょうか?いやいやでも、心で憎んでいても、形だけ従うことを教えているのでしょうか?そのためには、パウロが教えているこの3:18のみことばをもう尐ししっかり見ることが必要です。ここで言われている「従う」ということばは「下に」と「配置する」という二つのことばからできています。下位に置く、自発的に従う、自ら進んで従おうとする、という意味をもったことばがここで使われているのです。ですからパウロは、心の中に憎しみをもちながらでもいいから形だけでは従う、心の中で怒りをもちながらでも…と、そういうことを教えているのではありません。自分から進んで夫の下に自らを置き、自発的に夫に従って行きなさいと、そのように教えているのです。このように聞いて怒る人がおられるかもしれませんが、その前に、パウロが言うことを最後まで聞いてみてください。なぜ、パウロは「妻たちよ。…夫に従いなさい。」と言ったのでしょう?
◎「従って行く」その理由
(1)女性のほうが劣っているからではない
ある人は「女性のほうが劣っているから」と言うかもしれません。それは聖書が教えていることではありません。聖書は男女ともに神の前に平等であると教えています。神はそのように人間をお造りになりました。ガラテヤ3:28には「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」とあります。ですから、男子も女子も変わりはない、神が造られた最高のものだとパウロは言います。
(2)妻のほうが弱いからでもない
確かに、肉体的な弱さがあります。でも、だから従わなければならないとパウロが言っているのではありません。
(3)主が喜んでくださるから
パウロが教えることは「それは主が喜ばれることだから従って行きなさい」です。ですから、18節には「妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。」と記されています。「主にある者」とはクリスチャンのことです。そして、この「ふさわしく」ということばは「当然である、適当である」という意味をもったことばで、このことばは新約聖書の中でここ以外に2箇所に出てきます。エペソ5:4には「そのようなことは良くないことだ」と訳されています。つまり、このことばは「良いこと」という意味です。「また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。」、敢えて、否定にしていますが、「ふさわしい」ということばはこの箇所では「良い」と訳しています。また、ピレモン8では「私は、あなたのなすべきことを、キリストにあって少しもはばからず命じることができるのですが、こういうわけですから、」と、ここでは「ふさわしく」ということばが「なすべきこと」と訳されています。
ですから、「夫に従うこと」はイエスを信じているあなたが当然なすべきことであり、クリスチャンであるあなたにとって良いことであるとパウロは教えるのです。クリスチャンとしてそれはふさわしいことであり、クリスチャンの妻としてあなたがなすべきことであると言うのです。ただ、私たちが注意しなければいけないことは、すべてのことへの絶対服従を命じているのではないということです。なぜなら、「妻たちよ。主にある者にふさわしく」とあるからです。つまり、妻たちの一番の責任は主人である神に対するものです。あなたは主にある者としてまず主に従いなさい、主が喜ばれることをして行きなさいということです。そして、その主があなたの夫婦関係において望まれていること、喜ばれることは、妻が夫に従うこと、だから、あなたは夫に従うのです。
ですから、私たちがしっかり覚えるべきことは、もし、夫があなたに神が喜ばれないこと、神に逆らうこと、聖書が明らかに罪だということを強要した場合、妻は夫に対してそれはできませんと言うことです。夫がおまえは従わないじゃないかとたとえ言っても、あなたは正しいことをしているのです。なぜなら、あなたはまず主に従う者として、その責任を全うしなければならないからです。そして、あなたが主に従う者であるから、主が喜ばれることをして行こうとするのです。これは、妻であっても夫であっても子どもであっても、だれであってもイエス・キリストを信じる私たち一人ひとりにとって大切なことは、私たちの主である方に従って行くということです。
ある人は、私の夫はまだイエスを信じていない、未信者だからその責任はないでしょうと言われるかもしれませんが、聖書はあなたの夫がたとえイエスを信じていないとしても、そのように歩みなさいと教えています。Ⅰペテロ3:1に「同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。」と、あなたの責任は夫に従うことである、そして、あなたが主を喜ばせるために喜んでみことばに従い、夫に従っているなら、それはすばらしい証になるとペテロは教えてくれています。
(4)それが神の創造の計画であるから
神がそのようにすべてを造られたのです。エペソ5章を見てください。もう何度も話したように、エペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙はパウロが同じ時期に書かれています。そこには非常に似通った教えが出てきますが、エペソ5:22を見ると「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。」と、今私たちが見ているコロサイ3:18と似通った箇所です。5:23を見ると「なぜなら、」と続きます。その理由をパウロは教えるのです。「キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。」と、夫婦の関係をパウロはキリストと教会との関係において説明しているのです。教会の使命は大牧者であるイエス・キリストに従って行くことです。だれか勝手な教会の人間に従うのではありません。
それは、神が私たちにくださったこの聖書のおことばに従って行こうとするのです。Ⅰコリント12:27には「あなたがたはキリストのからだであって、…」とあります。からだを想像してみてください。頭があってからだがある、そこにはいろいろな器官があります。腕、足、手の指、足の指、目、耳とすべての器官は脳が命ずるように動きます。取りなさいといえばその物を取ろうとします。走りなさいといえば走り出し、止まりなさいといえば止まります。脳がするなといってもし続ける、物を取りなさいといっても取ろうとしないなら、問題です。なぜなら、私たちはそんなことは考えないで行動しているからです。つまり、かしらである脳が命ずるようにからだとして動いているからです。ですから、私たちはかしらであるキリストに対して、その方の言われることに従って行こうとするのです。即座に、無条件にその方に従って行こうとするのです。私たちがしっかり覚えるべきことは、私たちはキリストによって買い取られたものであるということです。
「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」とパウロがⅠコリント6:19-20で教えたように、神があなたを買い取ってくださり神の所有物となったのだからと、そのことを教えるのです。私たちの時間も、私たちの才能も私たちのすべてのものは私たちのものではなくて、神のものだと、だから、私たちは自分のすべてをもって神のすばらしさを証しようとする、それは神に従って行くことによってです。それは私たちクリスチャンがしっかりと神から教わっていることです。
そこでパウロは言うのです。そのような関係が教会とキリストとの関係であるように、あなたは自分のかしらである夫に対しても、そのように歩んで行きなさいと。創造のみわざを考えて見るとき、神は人間を造られたとき、最初に男性、アダムを造られました。
だから、家庭における責任は夫、男性にあるのです。家庭をどのように治めて行くのか、妻や子どもたちをどのように養い、信仰的に導いて成長させて行くのかという、その責任は私たち男性に神によって与えられているのです。家庭のリーダーは夫です。では、女性は何のために与えられたのでしょう?創世記2:18で「その後、神である主は仰せられた。『人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。』」と女性が造られたのです。助け手として、パートナーとして、リーダーである男性を支え励まして行くために…。神はそのように男女を造り、それぞれの役割、務めを与えてくださったのです。ですから、女性にとって大切なことは、神がそのような計画をもって造られたのですから、しっかりとあなたの夫を支えて行くことです。
どうでしょう?ご婦人の皆さん、あなたは家庭にあってあなたのご主人がリーダーシップを発揮できるように、彼を励ましその機会を与えておられますか?それとも、うちの家では私のほうが物事をよく判断できるし、私のほうがよく分かっているから、主人に任せるより私がやったほうが早いのです、主人はどうも優柔不断で結論が出ないのです、待っていられないので私がやるのですと…。だから、問題なのです。そうすると、ますますご主人はリーダーシップを発揮できなくなります。妻がやってしまうからです。もちろん、どちらが優秀だからと、そのようなことを言っているのではありません。家庭の中では女性のほうが論理的であったり、女性のほうが聡明であると、そのようなケースはたくさんあります。しかし、神が言われていることは、神が男性を造られたときどんな責任があったのか、リーダーとしての責任です。
女性は何のために造られたのか、そのリーダーをサポートするためです。これが神の計画だったのです。そこに戻って行くことが必要です。そのことをパウロはここで私たちに教えているのです。からだがかしらに従うように、あなたたちもかしらである夫に従って行きなさいと…。夫の決めたことにあなたは喜んで従って行こうとされていますか?うちの主人が決めたって間違いだらけだから私が決めたほうがいいと…、そうではないのです。もちろん、私はこう思うと話をすることはできます。でも、最終的にご主人が決めたなら、分かりました、それをやって行きましょうと、そのようにサポートするのです。それが、この聖書が妻たちに対して教えてくれていることです。もう一度、コロサイに戻ってください。今度は夫たちのことを見て行きます。
2.夫たちへ 19節
「:19 夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。」とあります。妻たちに対しては従順であれと言いました。勘違いしてはいけないことは、妻たちは夫に従うけれど、夫もおれに従えではなく、妻に仕えて行こうとするのです。このことはパウロがエペソ人への手紙の中でも教えています。それは後で見ますが、まず、パウロが夫に対してこの19節で教えていることは「愛」です。「妻を愛しなさい。」と。非常に驚いた統計ですが、2000年2月に実施された総理府の全国調査によると、女性の4.6%、およそ20人に一人がいのちの危険を感じる暴行を家で受けているという報告がなされています。家庭内暴力です、夫から暴行を受けているということです。
この統計を見て私はびっくりしました。神が男性たち、夫たちに教えていることは暴力をふるうことではありません。愛することを教えているのです。私たちは聖書を通して愛とはどういうことかを学んできました。それは感情ではありません。もう一度、はっきり理解するために、Ⅰコリント13章を開けてください。そこに愛とはどういうものかが記されていますが、「愛は寛容であり、愛は親切です。」とあります。「また人をねたみません。」と人のものを見て、その人の地位や仕事を見て妬む、羨む、それは愛ではないと言います。「愛は自慢せず、高慢になりません。」と自分のことを人々の前で見せびらかさない、「礼儀に反することをせず、」、人に対して全然配慮もしない、失礼な行為をする、それは愛ではありませんと。「自分の利益を求めず、」利己的でない、自分さえ良ければそれでいいと、それは愛ではない、「怒らず」突然感情的に怒る、それは愛ではない、「人のした悪を思わず、」と、これは人々の悪いことをいつまでも覚えているということです。このことばは比喩的に「根にもつ」と訳されることばです。
「不正を喜ばずに真理を喜びます。:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」と、これが愛だと言いました。こういう愛をもって妻たちを愛しなさいと言うのです。エペソ5章を見てください。コロサイ人への手紙の中ではパウロは「夫たちよ。妻を愛しなさい。」としか書いていませんが、エペソではもう尐し細かく記されています。どのように愛するのか、5:25を見ると「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」、キリストが教会を愛したように、キリストが愛してくれたように、その愛はただ「愛します」ということばではなく、自分をささげたように、自分のいのちを捨てられたようにということです。つまり、このパウロがエペソ人への手紙を通して、妻に対して夫が示さなければならない「愛」というのは、犠牲的な愛です。いのちがけの愛です。妻のために喜んで自分のいのちを捨てるという、そのような愛をもって愛しなさいというのが、ここでパウロが言わんとしていることです。なぜなら、私たちはイエス・キリストを見たときに、まさに、そのような愛をもって私たちを愛してくださったことを知るからです。
覚えておられますか?ヨハネ10:11でイエスはこのように言われました。「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」と、良い羊飼いは羊のために野獣がやって来たときに、逃げるのではなくその野獣に立ち向かって行く、喜んでいのちを捨てると言います。もちろん、これはイエス・キリストが後に私たち一人ひとりのために十字架の上で死んでくださった、その身代わりのことを言うのですが、当時の人々がよく分かった羊飼いのたとえをもってご自分のことを話されたのです。同じヨハネ5:13には「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」とあります。愛とは自分にとって最も大切なものをだれかのために犠牲にすることです。イエス・キリストがご自分のいのちを私たちのために犠牲にしてくれた、その愛に倣ってあなたもそのような愛をもってあなたの妻を愛しなさいと言うのです。
だから、コロサイ3:19で「夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。」と書いてあるのです。
「つらく当たる」というのはこの愛に反することだからです。「つらく」は「苦い」という意味です。そのように黙示録の中で3箇所、このことばが出てきます。そこでは「苦い」と訳されています。もっと正確にこの「つらい」「苦い」を見ると、無常になる、立腹する、癇癪を起こすという意味です。ある辞書によると、このような衝突の原因は短気であったり、絶えず小言を言ったり、ガミガミ言って悩ませたりする思いやりのない態度だと言います。男性の皆さん、このようなことをやってしまいます。これが「つらく当たる」ということだと言います。それは愛ではないと。この「妻を愛しなさい。」と「つらく当たってはいけません。」はどちらの動詞も現在形です。現在形の命令であるというのは、神はあなたに対して継続して習慣的に愛し続けて行きなさい、つらく当たらないようにしつづけなさいということを言っているのです。
どうして私たちは妻を愛するのでしょう?考えて見てください。自分のいのちを喜んで捨てるほどに彼女を愛するのでしょうか?それは、その妻は神が与えてくださった助け手だから、パートナーだからです。神が備えてくださった人だから愛するのです。神が選んでくれたのです。同時に、Ⅰペテロ3:7に「同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。…」とペテロは言っています。妻が女性であって自分より弱い器だから、そのことをわきまえて生活しなさい、そして、彼女に対して尊敬を払いなさいと言います。なぜでしょう?彼女も神の家族の一員だからです。自分の愛する姉妹だからです。主にある姉
妹だから彼女のことを愛して行こうと…。
そして、当然考えられることは、私たちが妻を愛するのは、それを主が望んでおられることであり、主が喜ばれることだからです。どうでしょう?男性の皆さん、そのような愛をもってあなたがあなたの妻を愛しておられるかどうか、神があなたに与えてくださったその伴侶を愛しておられるかどうか?この3:18-19の教えは私たちにとって難しいことだというのは説明しなくてもいいでしょう。夫に従って行くことも、妻を愛することも難しいことです。では、なぜ難しいのでしょう?考えてみてください。その原因は「罪」です。どこからそれが始まっているのか、エデンの園からです。創世記3章にそのことが出てきます。アダムとエバが罪を犯したとき、神は女性に対してこう言われました。「女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。
しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」と3:16のみことばです。後半に「あなたは夫を恋い慕うが」とあります。これは何となく夫のことが好きで夫を慕って行くけれどと見るのですが、この「恋い慕う」というのは「強要する、強いて何かをさせる、支配することを求める」という意味なのです。夫に強要する、強制的に夫に何かをさせようとする、夫を支配しようとするのです。ですから、罪によって何が起こったのか、それまでは妻は夫のすばらしい助け手として彼を支えてきたけれど、罪によって、今度は妻たちが夫を支配しようとなってきたのです。すると、夫はどうするのでしょう?「彼は、あなたを支配することになる。」と、ここで「支配」ということばが使われています。これは「独裁によって治めるとか、力で押さえ付けようとする」という意味です。夫婦間における力の争いです。妻は夫を支配しようとするのです。夫をコントロールしようとするのです。すると、夫はそうさせまいとして力で何とか妻を押さえ付けようとします。
どんな家庭を画くことができるでしょう?幸せな喜びのある、いたわり合った家庭を画けますか?逆です。争いが、口論が、衝突が絶えないのです。創世記の初めから神はそのことを言われたのです。人間の罪がそのような誘惑をもたらして行くというのです。だれからも支配されたくない、私は好きに生きて行きたいと…。だから、ヤコブはこのように教えるのです。ヤコブ4:1「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。」と、言い方を変えると「自我」です。自分中心です。自分がすべてのことに一番でなければならないと、自尊心が高すぎるのです。同じ4:6でこのように言います。「しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」、4:10では 「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。」と、大切なことはへりくだることだと言います。パウロはピリピ2:3で「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」と言っています。私たちにとって大切なことはどちらが偉いと競う合うことではなくて、相手に仕えて行こうとする態度です。お互いに相手のために仕えて行こうとするのです。お互いがお互いに対して謙虚になって行くことです。
今日、パウロが私たちに教えてくれたこと、それはどうすれば神が祝福される、神が喜んでくださる家庭を築くことができるのか、そのカギです。どうすればあなたの家庭が変わるのか、どうすればあなたの夫婦関係が変わるのかということです。聖書はこのように歩みなさいと教えています。そして、それだけではありません。それを実践する力を神は与えてくださるのです。クリスチャンである皆さん、今、あなたが考えなければいけないことは、私の伴侶はこの聖書が教えてくれている教えを実践しているかどうかを考えて、相手をさばくことではありません。神が言われていることは、あなたは妻としてどうですか?夫としてどうですか?です。大切なことは、伴侶を変えようとすることではなく自分が変わろうとすることです。神が望んでいる妻としてあなたが変わって行けば、あなたの家庭は変わって来ます。あなたが神が喜ばれるような夫になって行けば、あなたの家庭は変わって来るのです。でも、私たちがいつも言うことは、うちの主人がこういう人だったらとか、うちの家内がもう尐しこういう人だったらとか、必ず、自分の不幸の原因は相手にあると言うのです。あなたが変わればあなたを通して神が働いてくれるのです。
ですから、クリスチャンの皆さん、神が教えてくださっていることを重荷と感じるのではなく、これが神があなたに望んでいることであり、この神が望んでいることを神はあなたを助けて実践させてくれるということです。私たちがしなければいけないことは、神さま、どうぞ私を変えてくださいということです。私たちは人に対して、そして、神に対してへりくだって行くことです。そして、主よ、私にとっての問題は私自身です、どうぞ、私をみこころの人に変えてくださいと願い祈るのです。その時に神はあなたを変えて行ってくださるのです。
もし、イエス・キリストをまだ信じていない方がおられるなら、あなたの家庭も変わります、そのためには、あなたを変えてくださる、あなたを造られた創造主をあなたが受け入れることです。そのときまで、神はあなたのうちに働けないのです。あなたがあなたを変えてくださる神をあなたの心の中に招き入れないのなら、この方の働きがあなたのうちになされません。その真の神をあなたの人生から除くというような、除き続けるというような罪の生活を、今悔い改めて主に立ち帰ることです。どうぞ、私の罪を赦してください、そして、私をあなたが救い、私をあなたの喜ばれる者にしてくださいと、すると、神は働きます。主のメッセージは私たちに常に希望を与えるものです。こんな妻として、こんな夫としてすばらしい家庭を築いて行くなら、そこに育った子どもたちにすばらしい影響を与えて行くことができるのです。このみことばの順序を見てください。夫婦から始まるのです。まず、妻と夫から始まるのです。そこから親子関係が続いて行くのです。そのことは私たちは次回、みことばを学びます。
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