Messenger: 近藤修司
Passage: ピリピ1:9
Listen: メッセージを聴く
Read: メッセージを読む
今日から何週間か、「信仰における成長」をテーマに信仰の様々な要素に焦点を当てて、その成長についてごいっしょにみことばから学んでいきたいと思います。今日は「愛」がテーマです。「愛における成長」についてこれから見ていきます。聖書が教える「愛」、神があなたに求めておられる「愛」について次のことが言えます。その愛はこの社会が、また、人々が語る愛とは根本的に異なるということです。説明はいりません。皆さんよくご存じのことです。広辞苑などを見ると、面白い定義がされています。広辞苑では「親、兄弟の慈しみ合う心、広く人間や生物への思いやり、男女間の相手を慕う情、かわいがること、大切にすること。」とあり、別の辞書を見ても「対象をかけがえのないものと認め、それに魅きつけられる心の動き、また、その気持ちの現われである。」とあります。いろいろな定義があると思いますが、このようにまとめることが出来ないでしょうか。この社会が教える愛の定義はその対象に対する「自らの感情」である。自分がどう思うかという感情であると。でも、聖書も愛に関しての定義を与えてくれています。それはその対象に対する「自らの意志」です。愛するという意志です。
聖書の教える愛を私たちはどこから学ぶのでしょう?当然、聖書の中からです。ご存じのように、Ⅰコリント13章は「愛の章」と言われるほど「愛とはこういうものである」と記されています。しかし、今見たいのはそれではなく、それ以外のことです。もちろん、私たちが聖書が教える愛や神の愛を知ろうと思えば、主イエス・キリスト自身を見れば良いのです。彼自身がこの地上をどのように歩まれたのか、彼のその歩みを見る時に私たちは神の愛がどのようなものであるのか、聖書の教える愛がどのようなものであるのか、もっと言えば、あなたがどのような愛を持つように神が望んでおられるのかということを見ることができます。ですから、聖書が教える愛、神の愛について知ろうと思えば、当然、みことばからそれを学ぶことが出来るし、主イエス・キリストの生き様が私たちにそれを教えてくれます。
今、皆さんにお伝えしたいことはもう一つあります。聖書が教える愛、神の愛はどのようにして知ることが出来るか?聖書は「あなたを通して知ることが出来る」と言います。クリスチャンの皆さん、あなたを通して世はこの聖書の教える愛、神の愛を知ることが出来ると言うのです。私たちもゴスペルでこの曲を歌います、「主はぶどうの木」です。そのコーラスの部分で「みことばにとどまり愛に生きるなら、この世は知るでしょう、主の救いと癒し」と。だから、信仰者の皆さん、あなたが愛において成長することが大切なのです。なぜなら、神は聖書を通して、主イエス・キリストを通して、そして、あなたを通して、神の教える愛がどのようなものなのかを明らかにしようとしているからです。ですからパウロは、クリスチャンたちが信仰において、そして、この愛において成長することを強く望んでいたのです。
今日のテキストはピリピ人への手紙1章9節です。「私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、」、これはパウロのピリピ教会への祈りです。ピリピの町にある教会のクリスチャンたちに対して、兄弟たちに対するパウロ自身の祈りがここに記されています。何を祈ったのか?明確です。このクリスチャンたちの愛が成長することをパウロは願い、そのことを祈ったのです。「あなたがたの愛が…いよいよ豊かになり、」と記されています。この「いよいよ」とは「さらに一層、より多く」という意味です。「豊かになり」とは「勝る、優れる」ということで、パウロは愛において成長したクリスチャンとなるように、今以上に、さらに一層、信仰者として愛において優れた者になるようにとそのことを祈るのです。そして、祈るだけでないのです。この9節のみことばを通してパウロは、愛において成長したクリスチャンとはどういう人たちなのか、そのことを記しています。それを記してから、パウロは、あなたがそのような人に成長していくように、変えられていくようにと祈るのです。ですから、今、私たちはこの大切な9節のみことばから見ていきます。
☆愛において成長するために
A.主の贖い
まず、信仰において成長するために必要な第一歩は「愛をいただく」というところから始まります。
別の言い方をするなら、救いをいただくということです。そうでなければ愛における成長はあり得ないのです。それが絶対条件なのです。皆さんはよくご存じだと思います。
なぜなら、パウロがこの聖書で教えている愛、聖書が教える愛、もっと言えば、神の愛、神があなたに期待しておられる愛というのは、残念ながら、私たちが生まれながらに持っている愛ではないのです。私たちはこのような愛を知らなかったし、このような愛をもって生まれて来てはいないのです。だから、まず、その愛をいただくことが必要だと言うのです。このピリピ1:8をご覧ください。「私が、キリスト・イエスの愛の心をもって、どんなにあなたがたすべてを慕っているか、そのあかしをしてくださるのは神です。」、パウロはただ「私が愛の心をもって」とは言わないで、敢えて、「キリスト・イエスの愛の心」と強調しているのはその愛の出所がどこかを明らかにしたのです。彼がこのピリピの教会にいるクリスチャンたちを愛したその愛は、イエスから与えられた愛である、神が与えてくださった愛であるということをここで明確にしたのです。
ですから、パウロが彼らに対して抱いているその愛は、彼自身のうちに生まれながらに備わっていたものではなくて、キリスト・イエスの愛をいただいたゆえに、言い方を変えるなら、神の愛をいただいたのでその愛をもって兄弟たちを愛することが出来たと、そのことを言っているのです。
パウロはまた、Ⅱコリント5:14でこのように言います。「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。」と、その様子を描けますか?自分の周りにキリストの愛が溢れている、その愛によって自分は囲まれていると。内側に神の愛があるだけでない、外側からも神の愛が自分を取り囲んでいると言うのです。道理で、パウロは神の愛をもって人々を愛することが出来たのです。そして、感謝なことに、それはあなたにも可能だというのです。
◎聖書が教える愛は?
・神から与えられるもの
だから、聖書は「この愛をもっているかどうかによって、あなたが本当に救いに与っているかどうかが分かる」と教えます。Ⅰヨハネ4:7「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。」と、ヨハネは非常に分かり易く説明しています。その神の愛をもっている、なぜなら、救われているからだと言います。
・兄弟たちが互いに愛し合うことができるのは、愛の神が内住しているから
教会にあって兄弟姉妹が愛し合うことが出来るのは、先ず、自分が愛されていることを知ったからで、そして、同時に、その愛の神が私たちに内住しているから、私たちのうちに住んでおられるからです。そのことに関してヨハネは、同じⅠヨハネ4:16で「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。」と言っています。ですから、私たちがこの救いに与ることによって、愛の神が私たちのうちにおられることによって、私たちはその愛を実際の生活をもって世に示して行くことが出来るということです。ということは、その愛がなければ、私たちは兄弟姉妹を愛することが出来ないということです。創造主なる神を愛さない者は、その創造主によって造られたものを愛することは出来ません。創造主なる神を愛さない者は、その創造主によって造り変えられた、生まれ変わったものを愛することは出来ないのです。Ⅰヨハネ5:1「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。」、聖書のみことばははっきりと私たちにこの真理を伝えてくれます。
ですから、愛において成長するためには、先ず、この愛の神をあなた自身がいただいていること、この愛の神を心から信じ、救いに与っていることが条件です。そして、今日のテキストのピリピ人への手紙1章を見ると、パウロはこのピリピのクリスチャンたちがこの救いに与っていること、すなわち、救われているという確信を持っていたと言えます。なぜなら、「あなたがたの愛が豊かになるように」と祈っているからです。「あなたがたに愛が与えられますように」とは祈っていないのです。なぜなら、もうすでに彼らには愛が与えられていることをパウロは確信していたからです。彼はどのようにしてその確信を得たのでしょう?彼自身がそのことを記しています。もう少し後の4章で教えています。4:15-16「ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、私が福音を宣べ伝え始めたころ、マケドニヤを離れて行ったときには、私の働きのために、物をやり取りしてくれた教会は、あなたがたのほかには一つもありませんでした。:16 テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは一度ならず二度までも物を送って、私の乏しさを補ってくれました。」と、このようにピリピ教会の人たちはパウロの宣教のために役立とう、彼の働きを支えようとして物を送ったと言うのです。彼らは愛をこのようにして形をもって現わしたのです。まさに、私たちが前回も見たように「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。」ということを実践していたのです。愛の神が彼らのうちにいたからです。そのことを知っていたパウロは、そして、その愛の神がうちにいることはその行為によって証明されたので、「その愛がますます豊かになるように私は祈る。」と言ったのです。
ですから、愛において成長するためには、先ず、この愛をいただくことが必要です。
B.主の恵みによる
主なる神の恵みをいただくことです。パウロは確かにピリピ1:9で祈っています。しかし、パウロが祈ったのはこのピリピの教会のクリスチャンたちのことだけではありません。テサロニケ人への手紙を見ると、テサロニケのクリスチャンたちのためにも同じように祈っているパウロの姿が記されています。Ⅰテサロニケ3:12「また、私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように。また、私があなたがたを愛しているように、あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように。」と。兄弟姉妹の間にあってその愛が増し加わっていくようにとパウロはピリピのクリスチャンたちだけでなくテサロニケのクリスチャンたちのためにも祈っています。もちろん、このテサロニケとピリピの町は非常に近いです。パウロの宣教旅行ではテサロニケに行って、そして、ピリピへと移動して行きます。地理的に近い町ですが、クリスチャンたちがその愛において成長していくようにと、パウロは同じことを望んでいます。なぜでしょう?パウロは分かっていたのです。私たちの信仰生活において、我々が愛において成長していくためには、神の助けが必要だということを。そして、神の助けは確実に与えられるのです。神がなさる働きの中で、特に、三つのことを挙げますから見てください。
1. 主の助け
1)主が愛することを教え続けてくださる
このテサロニケの教会に対する手紙の中で、Ⅰテサロニケ4:9「兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。」、つまり、神は愛し合うことを教えてくれるのです。兄弟を愛することを神が教えてくれると言うのです。神はそのような働きをなさるのです。この9節のみことばを見ると、テサロニケのクリスチャンたちは「愛し合うこと」を教えられたのです。その教えがだれから来たのかは明らかです。神から教えられたと記されています。ですから、神は信仰者のうちに働いて、あなたが愛されたように人を愛するようにと教えているのです。
2)主が愛することを実践させ続けてくださる
そして、そのようにあなたを導いていってくれるのです。二つ目は愛を実践させてくださることです。Ⅰテサロニケ4:10「実にマケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対して、あなたがたはそれを実行しています。しかし、兄弟たち。あなたがたにお勧めします。どうか、さらにますますそうであってください。」、実行し続けているのです。現在形です。ですから、テサロニケのクリスチャンたちは神から教えられたことを実践していたのです。真実と行ないをもって彼らも愛を実践していたのです。そのような働きをパウロは「神が生み出してくださる」と言います。なぜですか?このピリピのクリスチャンもテサロニケのクリスチャンも、もちろん、全員とは言えないかもしれませんが、少なくとも、神を愛し神の前に喜ばれる生き方をしたいと思っている人たちは、神が変えてくださり、神がその人を用いていってくださるのです。そのような働きがピリピにおいてもテサロニケにおいてもなされていたのです。神のことを知り、神に喜ばれたいと願っている者たちに神は真理を教えてくださり、そして、教えるだけでなくそれを実践させてくれると言うのです。神の愛を知った者たちはその愛をもって人々を愛そうとし、そして、感謝なことは、神がそれを実践させてくださると、そのことをパウロは言うのです。
3)主が愛されていることをあなたに教え続けてくださる
あなたに愛することを教えるだけでない、隣人を愛することを教えるだけでない、それを実践させてくれるだけでない。実は、あなたが神によってどれ程愛されているかを教えてくれるのです。ローマ5:5に「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」とあります。「私たちに与えられた聖霊によって」、つまり、パウロは「クリスチャンとはその人のうちに聖霊なる神が住んでおられる人だ」と言うのです。聖霊なる神がうちにおられるからその人は変わっていくと、そのことを言うのです。そして、そのうちに住んでいる聖霊なる神は「神の愛が私たちの心に注がれている」と言います。「注がれる」とは「豊かに与える、霊的に元気を回復させる、励ます、水が注がれていくように注がれる」と、そのような様子を表わしています。つまり、あなたの心が常に励まされ続けていく、あなたの心がこの聖霊によって霊的にいつも元気を持ち続けていくように、内住する聖霊はそのような働きをなすと言うのです。特に、このみことばを見る時に私たちが教えられることは「神の愛が」ということです。
ということは、内住する聖霊なる神があなたのうちに何をしておられるのか、また、これから何をして行くと約束されているのか?神はあなたの心の中に働いてあなたがどれ程大きな愛で愛されているかを教え続けてくれるということです。このような罪人のために主イエス・キリストは自ら十字架でいのちを捨ててくださった、ここまでして私は愛されていること。神は私の過去も現在も、そして、未来もそのすべてを知った上で、なおも私のことを愛してくださっていること。そして、こんな罪深い私を愛し大きな犠牲を払ってくださったこの主の愛は変わることがない。私は決して見捨てられることがない。この地上にあっても、そして、永遠をこの神とともに過ごすことが出来る。このような神のすばらしい祝福を神は私たちの内側から繰り返して思い起こさせてくれるのです。
どのように神が働くのでしょう?よく聞いてください。聖書のことばを通して働かれるのです。あなたが聖書のことばに触れていく時に、神はこの聖書のことばを通して「この約束はわたしがあなたに与えたものだ。この祝福はわたしがあなたに約束したものだ。」とそのように私たちのうちに教え続けてくださるのです。そして、そのことを通して、私たちは神の愛によって圧倒されていくのです。こんなに愛されていていいだろうか?こんなにすばらしい愛で私が満たされていていいのだろうか?と。そのようにして神はあなたの心に働くと言うのです。
なぜ、このような働きが私たちに必要なのでしょう?なぜ、神が私をこんなにも愛してくれていることを日々思い起こし続けていくことが必要なのでしょう?答えは簡単です。私たちが神の恵みを覚えるときに私たちはその神に対して感謝をします。私たちの心が感謝に満たされているときに、私たちは正し動機を持って生きるからです。同じ奉仕をしても、感謝をもって喜びながらやっているのと、そうでないときとは、部屋はきれいになるかもしれない、物は片付くかもしれませんが、問題は私たちの心です。私たちが神が与えてくださったこの一日を正しく生きていくために、聖霊なる神は私たちに私たちがどれ程愛されているかを教えてくださり、それに気付いた私たちが「神さま、感謝します。」と感謝をもって、私たちはその日を生きていこうとします。その時に私たちは正しい動機を持って神の前を生きていくのです。そのために主は私たちのうちに働きそのすばらしさを思い起こさせてくれるのです。そのような働きを為してくれるのです。だから、このような神に助けを求めて生きることが必要なのです。このような働きを神は約束してくださった。私たちはそのことを信じ、そのことを期待して歩んで行くことです。先ず、私たちはこの愛をいただかなければいけない。そして、神の助けをいただかなければいけないのです。
C.成長した愛
成長の過程を教えてくれたパウロは、ピリピ1:9で今度は成長した愛について教えます。言い方を変えるなら、成長したクリスチャンの姿、愛において成長したクリスチャンの姿をここに記しています。パウロはここで成長の願いを挙げました。「いよいよ豊かになり」とあなたがたが愛において成長することを願っていると言います。そのことを祈った後、今度は成長した者の姿を記しています。実は、「豊かになり」という動詞にかかっていることばを見てください。「真の知識」と「あらゆる識別力」という二つの名詞です。今、私たちは愛において成長することを見ていますから、そのことを考えると、この「真の知識」、「識別力」は愛と結びつかないように思いませんか?でも、パウロがここにこのように記したのは、実は、この「真の知識」「識別力」において成長している人、その人こそ、愛において成長した人だとパウロは言うのです。どういう意味かを見ていきましょう。
1.真の知識
実は、このことばはパウロによってコロサイ人への手紙1章9節に用いられています。「こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。」と。このことばは二つの意味を持ったことばが合成されています。「何かに向かって」という意味と「理解する」という意味を持ったことばから出来ています。ですから、これは「深く完全な知恵、また、知識、深くて正しい認識力」と、そのようにギリシャ語の辞書はこのことばを定義しています。では、この「真の知識」とは何のことでしょう?神のみこころを正確に見分ける、また、判断する力のことです。というのは、私たち信仰者は日々の歩みにおいて「主のみこころを知ること」が必要だからです。
その例を話します。パウロはローマ人への手紙の中でローマの教会に対して、救われたことを感謝する者としてどのように生きていけばよいのかというその生き方を説明しました。私たちがすでに学んだ所です。神のそのすばらしい救いの話をして来たパウロは「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(12:1)と言いました。
神が望んでおられるのはあなたの一部でなくあなた自身だと言います。ですから、救われたことを感謝している者たちは「どうぞ神さま、私のすべてをあなたのみこころに沿って、あなたが喜ばれるようにお用いください。」と自らをささげるのです。それこそ神が喜ばれることであり霊的な礼拝であると書かれています。続く2節のことばを思い出してください。「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」と。考えてください。「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、」と、つまり、神の恵みによって救われたことを感謝している者は神のみこころを求めそれに従って生きる、それこそ、感謝している人の生き方だと言うのです。あなたが神の救いを感謝しているのなら、主のみこころに従って生きていきなさいと言うのです。そのことをパウロは教えてくれました。
1)神の栄光を現わすため
私たちは神のみこころを正確に見分けること、判断するその力を訓練して行くことが必要です。毎日の生活にあって、神のみこころは何なのか、つまり、何が神の前に喜ばれることなのか、そのことをしっかりと見極めて正しい選択をすることが必要なのです。私たちはなぜそれが大切なのかをよく知っています。神の栄光を現わすために大切だからです。
思い出してください。主イエス・キリストは父なる神から送られて来ました。そして、イエス・キリストは100%神の栄光を現わされました。どのようにして現わされたのですか?簡単です。主イエス・キリストは父なる神のみこころに従ったのです。だから、栄光が現われたのです。そのことをイエスはヨハネの福音書17章でこのように言われます。17:4「あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。」、17:18「あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。」と。そして、神はこのように言われます。「実は、信仰者であるあなたも神によって遣わされている。」と。17:18「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」、信仰者の皆さん、これはあなたのことです。
また、20:21を見てください。「イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」と。
ですから、私たち信仰者は、今、あなたが送られている所に神によって遣わされているのです。何のためにですか?イエスは「父なる神はわたしをこの世に遣わした。それは、父なる神の栄光を現わすためです。」と言われました。そして、このように言われます。「あなたもこの世に送られた。父なる神の栄光を現わすためです。」と。イエスがそうであったように、私たちも父なる神のみこころに従って生きることによって現わすのです。ですから、栄光を現わすためにみこころに従うことは不可欠であることが私たちによく分かります。
2)祝福をいただくため
パウロがエペソ人への手紙5:17で「ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。」と言う通りです。
さて、今日のテキストに戻ってください。神の愛において成長するようにとパウロは願いました。つまり、彼が言いたかったことは、信仰者が神が愛することが何かを判断してそのように選択をして生きていくことです。逆説的に言えば、神が憎まれることが何かを判断し、そのようなことから離れていくことです。そして、どのようにしてそれを判断するのか?その判断力をどのように培っていくのか?聖書しかありません!ここに神のみこころが記されているからです。神のみこころは、何か突然、夢の中に出て来るものではありません。すべてはここに書かれてあります。この聖書に記されていることが神のみこころであり、この聖書に記されていることが、神が私たちに教えようとされるすべてのことです。ですから、主を愛する者たちは、主のみこころを知るためにこのみことばを愛し、この聖書のみことばを熱心に学ぶのです。当たり前のことです。皆さんがそうされているように「神さま、私はあなたのみこころを行なっていきたい。だから、どうぞあなたが望んでおられること、あなたのみこころを教えてください。」と祈ります。みこころを知るためには聖書を学ばなければいけないのです。皆さんは熱心に聖書を学んでおられます。そのようにして神はあなたに神のみこころを明らかにしていってくれるのです。みこころを知り、それを実践させてくださる神の助けをいただきながら神の栄光を現わしていくのです。私たちはそのように生きるのです。ですから、先ず、「真の知識」とパウロは言いました。神のみこころに関する知識です。みこころを正しく判断できる知識のことです。
2.あらゆる識別力
「識別力」ということばは「理解する」ということばから派生しています。原語は「理解する」という意味です。この「識別力」ということばは新約聖書の中でここにしか出て来ません。「識別力」とは一つは「選択」のことです。ヘブル人への手紙5章14節で著者は「しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」と言っています。ここに「良い物と悪い物とを見分ける感覚」という表現があります。それが「識別力」です。愛において成長している人は、神を愛するゆえに、神の前に良いこととそうでないことを見分けることが出来る人たちなのです。それはすべて神のみこころに基づいて判断するのです。聖書のみことばに基づいて判断しているのです。なぜなら、聖書を見るなら神が喜ばれることは何かが分かるからです。ですから、それによってこれは神の前に良いことなのかそうでないことなのかを判断するのです。ピリピ1:10を見ると「あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、」とあります。この箇所から、9節でパウロが言わんとしていることは、道徳的な聖さと関連していることが明らかです。ですから、いろんなことがあっても、その中で神の前に正しいことが何なのか、聖い神の前に正しいことは何なのか、そのようなことを見分けることができる人のことを言っているのです。ジョン・マッカーサ先生は「識別力とは、高い水準の聖書的、神学的、道徳的、霊的洞察力を意味する」と説明されます。
また、もう一つは「適用」です。同じように、マッカーサー先生は「識別力は、知識の正しい適用を意味している。」と、そのような意味を持ったことばであると説明しています。ですから、神の前に良い物と悪い物を見分けることができるだけでなく、学んで来たその知識を毎日の生活において適用することのできる人のことです。愛を示す時に、その愛の示し方が分かっている人です。また、9節には「あらゆる識別力によって」と「あらゆる」という形容詞が記されていますが、これはあらゆる状況において正しい選択をし、愛を正しく示すことができる、そのような愛の人として成長しなさいということを言うのです。なぜ、そのようなことを言うのでしょう?「愛とは何でもむやみに愛すること」ではないからです。聖書は「何であっても愛すればいい」とは教えていません。なぜなら、聖書は「罪を愛してもかまわない。」とは教えていないからです。罪を犯している兄弟たちに対しては、これまで楽しんで来た彼らとの交わりを禁じています。なぜなら、神の愛は神の基準を無視して盲目に愛することではないからです。私たちはどのように愛を示していくのかを考えなければいけないのです。「あらゆる識別力」をもったキリスト者が信仰において成長している理由は、何が神の前に正しいことかを判断でき、また、どのように愛を示すべきかの判断ができるからです。
ここ最近はいなくなりましたが、教会にはいわゆる詐欺師がやって来ました。教会は愛を実践する所だと言ってやって来るのです。そして、いろんなストーリがそこにはあって非常に面白いこともあるのですが、今は皆さんに話す時間はありません。非常に巧みにやって来ます。いろんな教会で牧師に聞いてみると、教会員がその人をあわれんで何十万も渡したということもあったようです。ある人は「教会は愛だからだれにでもどんな人にでも与えたらいいではないか」と言うかもしれません。でも、それは本当の愛ではないのです。必要な人たちに与えなければいけないのです。ですから、ここでパウロが言っている「あらゆる識別力によってあなたがたの愛が豊かになっていく」ということは、そのような知恵をもって愛を示すべきか、どのように示すべきか、そのことをしっかりと分かっている人のことです。
例をあげましょう。ある人がエルサレムからエリコに向かっていた途中に強盗に遭いました。彼は身ぐるみすべてはがれて、大変なケガを負って道端に倒れていました。そこに祭司が通りがかりましたが、その祭司はけが人を見て反対側を通り過ぎて行ったのです。そして、そこにもう一人の宗教家、レビ人が通りかかりますが、彼もそのけが人を見たけれど反対側を通り過ぎました。次に、また別な人が通ります。この人はサマリヤ人であったと敢えてそのように記しているのは、サマリヤ人はユダヤ人から忌み嫌われ蔑まれていたからです。彼らは純血ではない、いろんな民族が混ざっているからというわけです。祭司やレビ人という宗教家たちは、重傷を負った旅人のために犠牲を払おうとはしませんでした。けが人のところに走り寄って助けようとはしなかったのです。彼らは反対側を通り過ぎて行ったのです。しかし、このサマリヤ人は自ら進んでけが人のために犠牲を払いました。彼ができることを精一杯このけが人のためにしました。オリーブ油を塗って応急処置を施し、自分の家畜に彼を乗せ自分は歩いて宿まで彼を連れて行きます。しかも、治療費も宿泊費も彼が負担しました。なぜ、そのようにしたのか?みことばは私たちに教えます。「彼を見てかわいそうに思い、」(ルカ10:33)と。皆さんもよくご存じの「良きサマリヤ人」といわれる話です。ルカの福音書10:25-37に記されています。
このサマリヤ人を思い出してください。このサマリヤ人は何が正しいことか、何が神に喜ばれるかを正しく判断し、そのように行動したのです。知っていることを、その知識を、また、主のみこころを彼は実践に移したのです。ここで語られていることはそのような人のことです。聖書が教えている愛、神の愛というのは、神のみこころを知りそれを実践することです。神が喜ばれることとそうではないことを判断して、そして、喜ばれることを実践できる人が「愛の人」です。パウロが9節で「あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、」と祈りました。彼らがイエス・キリストがそうであったように、主を愛するゆえに主のみこころに喜んで従って行こうとする、そして、人々の前で主の愛をもって彼らに賢く愛を示し、喜んで彼らのために犠牲を払う、そのような愛の人として成長するようにというのが、ここでのパウロの祈りなのです。
パウロはこのピリピ教会の人たちの弱さを知っています。だから、パウロは彼らのために祈りました。というのは、神の恵み、聖霊なる神の助けが必要であることを知っていたからです。愛の人としてあなたが成長することは非常に大切なことです。なぜですか?初めに話したことを思い出してください。聖書の教える愛、この神の愛はどのようにして人々の前で明らかになるか?第一は聖書でした。私たちは聖書を通して、神がどんなに愛の神であるかを見ます。もちろん、付け加えるまでもありませんが、神はさばきの神でもあります。聖い正しい神ですから罪をさばかれるお方です。しかし同時に、我々のような罪人を愛してくださる神の愛を知ることができます。主イエス・キリストを見る時に、我々は神が人となられいのちという犠牲をもって愛してくださったこと、そのことによって私たちは愛が分かります。彼の歩みを見る時に私たちは愛を知ることができます。三つ目のことを覚えていますか?あなたを通して神の愛が世に明らかにされていくのです。あなたがどのように生きるかによって、あなたの家族が、あなたの親族があなたの友人が近隣の人たちが神を知るのです。
どうですか?信仰者の皆さん、愛において成長していますか?あなたの願いは「神さま、私はあなたのみこころを行なっていきたい。それはあなたを愛するから。みことばを愛することを教えてください。そして、みことばを通してあなたのみこころを教えてください。私はそれに従って行きたい。」と、そのような願いをもって歩んでおられますか?「神さま、私はあなたの教えてくださった愛を賢く実践していきたいです。どうぞ、そのように私を助け、私を用いてください。キリストの愛を私の家族に私の友人たちに示していけるように私を助けてください。」と、そのようにして成長するのです。そして、私たちが主の前に祈るということは、主の助けが必要であることを私たちが認めているからです。パウロはピリピ教会の人たちが成長することを望みました。そして、このパウロはあなたが成長することも望んでいるのです。どうぞ、信仰者の皆さん、愛において成長する者となってください。なぜなら、あなたが成長する時に、私たちのすばらしいこの神が周りの人々に明らかにされていくからです。そのために救われ、そのために生かされていることを覚えて、主の助けをいただきながら歩んでください。
《考えましょう》
1. 「主のみこころ」をあなたのことばで、定義してみてください。
2.「みこころ」を聖書の中から見出すためにはどうすればよいのでしょう?
その方法をあげてください。
3.「真の知識とあらゆる識別力において成長した人」が、どうして「愛において成長した人」なのでしょう?
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